佐倉さんは旧約の中から引用されています[聖書における「死後の世界」]が、そのほかにも第一ペテロの3章1 8節から20節にキリストが亡くなられてすぐに霊界で伝道されたことが書かれ てあります。4章6節にも繰り返してあります。 イエス様は亡くなるとき隣の囚人にたいして今日あなたとともにパラダイスにい ると言われました。しかしマリアに会われたとき、まだ父のみ元に登っていない と言われました。つまりパラダイスは天父のおられる所ではなく霊界の場所であ り獄もその一部です。人は死ぬと悔い改めた義人はパラダイスにそのほかの人た ちは獄(ひとや)に行き自らの罪の代価を払うことになります。福音を聞く機会 がなかった人たちもそこで福音の教えを受け受け入れるか拒むか選択する事にな ります。そしてそこで復活の時を待ちます。第一コリント15章21から58節 に復活と死者への身代わりのバプテスマについて書いてあります。

                 


samtsumi さんのおっしゃるとおり、新約聖書を開けば、「復活」とか、「体と魂」とか、「永遠の命」という言葉にぶつかります。したがって、エホバの証人のような数少ない例外を除いて、ほとんどのキリスト教が、死後にも生存し続ける「魂」の存在を信じているのも当然と言えるでしょう。わたしもかつてはそう信じていました。samtsumi さんのあげられた例の他にも、たとえば、

体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。(マタイ 10: 28)

子羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証のために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きをおこなわず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」(黙示録 6: 9-10)

のような記述や他の例から、わたしたちは新約聖書の著者たちが死後の魂の生存を信じていたと理解してよいと思います。また、あらたに、「『永遠の命』の思想」でも、わたしが指摘したように、新約聖書の教えの神髄は人間が「永遠の命」を得ることであるといってもよいと思います。したがって、新約聖書に関しては、samtsumi さんの指摘されているとおりだと思います。

注目すべき問題は、新約聖書にとってはきわめて重要な「死後の魂の生存」とか「永遠の命」の考え方が、本来の聖書(旧約聖書)にはないという事実です。つまり、人間の死に関する教えにおいて、キリスト教(新約聖書)は本来の聖書の伝統を逸脱した宗教であるという事実なのです。「聖書における『死後の世界』」においてわたしが指摘したかったのはそのことであります。