聖書初心者の狸ともうします。

「聖書の間違え」拝見させていただきました。 大変勉強になりました。ありがとうございました。

沢山の方がご意見を述べられていらっしゃいますが、 私には難しすぎてわかりません。

ところで原文が失われた聖書のであるからこそ正文 批判をするべきではないでしょうか。 訳文にあまりにも重きをおいていると足をすくわれ かねないかもしれませんし、ある教団では偏った独 自の訳文を使って啓蒙しています。 そこまでできいないまでも新訳であるなら(最低限) ネストレを使うべきではないでしょうか。

「Ελωι ελωι λεμα σαβαχθανι」 昔から疑問に思っていたのですが、もしイエスが 神であるのならどうしてこのような言葉がでたの でしょうか。

もし、わたしが聖書の専門家なら、ヘブライ語やアラム語やギリシャ語やコプト語やウガリト語などをマスターし、原語で聖書資料を読み、また語っているかも知れませんが、わたしは、聖書に関してはただの素人にすぎません。しかし、幸いなことに、聖書は翻訳の豊富な書であり、とくにここ米国では、最新の研究結果を取り入れた、新しい翻訳が頻繁に出版されますから、それらの豊富な翻訳を比較検討することができます。また、わたし自身が原語を知りたい場合があれば、その都度、原語対訳聖書や原語付き聖書ソフトなどを使用してより詳しく調べることもできます。

聖書の専門家にとって原語のマスターは必要であり、非常に大切なことだと思います。しかし、聖書に関するわたしの主張にとっては、それほど決定的なことではありません。なぜなら、もし翻訳が重大な誤りを含んでいるとすると、それは、むしろ、わたしの主張していることを傍証することになるからです。つまり、聖書がわたしたちの手に伝承される過程において、聖霊はよくはたらなかったことになり、「聖書は聖霊によって導かれて書かれたものであるから、いかなる誤謬も含まない」という主張が、それほど無邪気に信じられるものではないことがよりいっそう明らかになるからです。したがって、わたしが、信者一般が使用している聖書を、ことさらに、使用することには意味があると思っています。

さらに、もし、神の言葉が翻訳によっては伝承されないとすると、聖書を中心とするキリスト教は絶望的な宗教であると言わねばなりません。そもそも、イエスやその弟子たちはアラム語を語ったのに、新約聖書は初めから外国語(ギリシャ語)で書かれたわけですから。キリスト教は最初から翻訳語をその聖典の言葉とした「翻訳宗教」です。この意味においても、原語か翻訳かという問題は、とくにキリスト教にとっては、それを致命的問題とするわけにはいかない事情があります。

また、インターネット上でわたしの意見をこのように公開している理由も、皆さんに批判吟味していただくためですから、もし、わたしの聖書引用部分で、翻訳上の問題があれば、その指摘をしていただけるとたいへん助かります。

「Ελωι ελωι λεμα σαβαχθανι」 昔から疑問に思っていたのですが、もしイエスが 神であるのならどうしてこのような言葉がでたの でしょうか。
まったく、その通りです。福音書でさえ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)というような言葉をイエスの言葉として残しているように、イエスを神であるとする考えは、聖書だけからは、とてもでてこないだろう、とわたしも思います。とくに、創造者と被造物を厳格に区別する本来の聖書の伝統(旧約聖書)から見れば、イエスを「神人混合体」とする思想は明らかに異教であり、神でないものを神とする偶像崇拝にさえなるだろうと思われます。メシヤとは「油を注がれた者」、神によって(イスラエルの民の)王として任命され、イスラエルを救い守る使命を与えられた者のことを意味するのであって、「神人混合体」を意味するメシヤ思想は本来の聖書の伝統には見えません。

ローマ帝国においては、その皇帝は自己を神と考えていましたが、イエスを「神人混合体」とする考え方は、その母マリアを「神の母」とする考えと共に、そのような異教文化圏内でキリスト教が発展する中で生まれたものであって、とくに、3、4世紀のテルトリアヌスやオリゲネスやアタナシウスなどの教父たちによって明確化にされていった思想です。しかも、いったんイエスを神とする考える思想が正統化されるやいなや(325年ニケーヤ会議)、イエスに関する他の考え方は、ローマ皇帝の政治権力によって排斥されました。例えば、333年に、ローマ皇帝コンスタンチヌスは、ケーヤ会議によって異端となったアリウス派の書は見つかり次第かならず焼却すること、そして、そうしない者は死刑に処す、という勅令を出しています。このようにして、イエスは神であるという思想がキリスト教の正統的信仰として確立されていったのです。

現代のクリスチャンの多くが、イエスを神と信じるのは、聖書を根拠としてではなく、そのような伝承を受け継いだ人たち(神学者や教会の牧師たち)に教えられたことを、そのまま無批判的に受け継いでいるにすぎません。とくに、かつてのローマ帝国がそうであったように、人間(天皇)を神と信じる土着宗教のある文化圏(日本)では、比較的無批判的に受け入れられる伝承だろうと思います。