はじめまして。すのはらと申します。プロテスタントのクリスチャンです。現在ニューヨークに住んでいる会社員です。
このようなサイトに出会うことができてインターネットのすごさに感動しており ます。さらに読み進めていくうちに、特に来訪者の声のコーナーで佐倉さんがご自分が エッセイを書かれる立場をしっかりと規定されていらっしゃることに、さらにはその規定し ていらっしゃる立場に感嘆いたしました。内容に関しては私は専門家ではありませんので何とも言えませんが、インターネットならではのインタラクティブなしかも意義のある議論がなされていると思いました。
さて、「正しい」ということについてあくまでも一読者として感想を述べさせて いただきたく思います。
「作者より浜田さんへ」の応答の中に、
(1)PならばQ (聖霊が働いて書かれたものは、すべて正しい)という記述があります。この記述中の「正しい」という言葉について、様々な異 なる理解があるのではないかと思います。 私が聖書を読むとき、そして、おそらくクリスチャンは皆、無意識にでもそうで あろうと思うのは、
「正しい」=「神のみことばである」ということです。ここで「神」とは、「わたしたちの救い主イエス・キリストの父なる神」のこと で、一般的な神でないのはもちろん、宗教学で宗教の一つとしてのキリスト教の神概念として 説明されてしまう神でもありません。信仰者が信仰をもって信じている神のことです。つま り、「正しい」と「神のみことばである」を等しいとするとする背後には、キリスト教の信仰が 前提となっています。したがって、"信仰を持って読むとき、聖書はすべて神のみことばとし て正しい"と言えるのだと思います。
ところで、単にこのような意味で「聖霊が働いて書かれたものは、すべて正し い」ということばを理解しているクリスチャンだけではないようです。この「正しい」というこ とを、「科学的にも正しいはずだ」あるいは、「聖書に書かれた字義のとおりに正しい」とす る考え方もあります。ふつう原理主義というとこの辺の考えをいうのだと思いますが、佐倉さ んのサイトの内容は、このような考え方への反論というより、単に聖書の記述の矛盾を示した ものだと私は理解しました(全部を読んだわけではありませんが)。
以上のように「正しい」ということに対して異なる理解があるため、このサイト の内容が、聖書を字義どおりに正しいとする考えに相対するものだとしても、この点について このサイトの内容を誤解される方が多いのではと思うのですが、いかがでしょうか。
ここからは単に論理の問題です。 以上のように「正しい」について異なる理解がある場合、「作者より浜田さん へ」の応答の中に記述されている
(3)よってPではない (聖霊が働いてない部分がある=「聖霊はよく働かなかった」)という論理的結論も変わってくるように思えるですが、私は論理学は学んだこと がないのでよく分かりません。しかしながら、たとえ「正しい」について以上のような私の管見 がなくとも、どう考えても、私には「聖霊はよく働かなかった」という論理にはならないので す。
私の考えはこうです。
命題1と命題2を次のように定義する。 命題1:「聖書はすべて聖霊によって書かれたものである。」 命題2:「聖霊によって書かれたものはすべて"特定のある意味で"正しい。」 (注1:ここでは両方の命題に「すべて」という言葉を入れました。また、ここでの「すべて」 とは、聖書的な"entirely"の意味ではなく、単に論理学としての"all"の意味です。) (注2:私の上記の意見を考慮し、あえて"特定のある意味で"という語句を加えました。) この2つの命題を両方とも「真」であると仮定すると、 命題3:「聖書は"特定のある意味で"正しい。」 この命題3は「真」である。 しかし、検証の結果、反例の事実が出た。(ここが佐倉さんのサイトのいうところでしょう) 事実:聖書は「"特定のある意味で"正しい」に反する内容を含む。 したがって、次の結論が得られる。 「命題1と命題2のうちの少なくとも一方は「偽」である」つまり、「聖書はすべてが聖霊によって書かれたものではない」か、かつ/また は、「聖霊によって書かれたものはすべて"特定のある意味で"正しいとは言えない」ということにな ります。
ここで、「聖霊はよく働かなかった」に相当する「聖書は少なくともその一部は 聖霊によって書かれたものではない。」という結論に達するためには、命題2を「真」とする必要 がありますが、いかがなものでしょうか。
このメールが佐倉さんのご参考になれば幸いです。
先ず、論理の問題から検討したいと思います。
しかし、検証の結果、反例の事実が出た。(ここが佐倉さんのサイトのいうところでしょう)
事実:聖書は「"特定のある意味で"正しい」に反する内容を含む。
したがって、次の結論が得られる。
「命題1と命題2のうちの少なくとも一方は「偽」である」
つまり、
「聖書はすべてが聖霊によって書かれたものではない」
か、かつ/また は、
「聖霊によって書かれたものはすべて"特定のある意味で"正しいとは言えない」
ということになります。
ここで、「聖霊はよく働かなかった」に相当する「聖書は少なくともその一部は 聖霊によって書かれた
ものではない。」という結論に達するためには、命題2を「真」とする必要 があります……
これは、まったくご指摘の通りです。とても鋭いご指摘です。確かに、「聖書は聖霊によって書かれているのだから、正しい」(「PならばQ」で僕が言おうとしたこと)という主張の背後には、すのはらさんがご指摘されるように、「聖書は聖霊によって書かれた」(命題1)という前提だけでなく、「一般に、聖霊によって書かれたものは、すべて正しい」(命題2)という暗黙の前提があります。したがって、この二つの前提から導き出される結論(ゆえに聖書はすべて正しい)が誤りであることがわかった場合、否定されるべき前提は必ずしも、「聖書は聖霊によって書かれた」(命題1)であるとは言えません。
わかりやすい例をあげてみます。たとえば、「A君は人間だから、必ず死ぬ」という主張を考えてみます。ところが彼は、首をはねても、火あぶりにしても、毒をのませても、どんなに歳を取っても、どんなにしても絶対に死なない、という驚くべき事実が明らかになったとします。すると、この事実は「A君は人間だ」ということを反証した(「A君は人間ではない」)かに見えます。しかし、そうではありません。なぜなら、実は「A君は人間だから、必ず死ぬ」という主張の背後には、実は「人間というものは必ず死ぬもんだ」という、暗黙の前提があるのです。したがって、彼が死なないという事実は、この「人間はというものは必ず死ぬもんだ」という暗黙の前提の方が間違っていた(つまり、「死なない人間もいる」)からであって、彼が人間であることが否定されたのではない、という可能性も出てくるわけです。すのはらさんのご指摘はこの例のような隠された前提を明るみに出されたところにあります。
ひるがえって、僕の論理手続きを読み返してみますと、明らかに「PならばQ」という論理式の解釈(カッコのなかの言葉)が不正確です。以下は訂正です。(長くなるので、「聖霊によって書かれた」を「神の言葉」に書き直しました。また、この方が一般にもわかりやすいと思います。)
(1)PならばQ (もし「聖書はすべてが神の言葉」なら、「聖書のすべては正しい」) (2)しかるにQではない(聖書には間違いがある=「聖書のすべてが正しい」わけではない) ----------------------------------------------------------------------------------- (3)よってPではない (「聖書はすべてが神の言葉」なのではない)もちろん、(1)の主張には「神の言葉はすべて正しい」という暗黙の大前提があります。すのはらさんが明らかにされた命題2(聖霊によって書かれたものはすべて正しい)に対応するものです。また、「神の言葉=正しい」というすのはらさんの信仰の立場にも対応するものでしょう。したがって、もっと端的に次のように言い換えることが出来ます。
(a)神の言葉はすべて正しい。 (信仰あるいは神の定義による) (b)しかし、聖書にはいくつかの間違いがある。 (事実) ----------------------------------------------------------------------------------- (c)ゆえに、少なくとも聖書の一部は神の言葉ではない。(結論)この方が、もっと明晰かもしれません。しかも、この形の方が、すのはらさんが問題とされている「正しい」とは何か、という問題を検討する上でも便利なような気がします。つまり、
「正しい」について異なる理解がある場合…、論理的結論も変わってくるように思えるですが…とすのはらさんが感じられている部分は、おそらく、(a)の「正しい」と(b)の「正しい」(間違っている)の意味に相違があるため、(c)の結論は導き出せない、というふうに論理分析できるかと思います。
そこで、今度は「正しい」という表現の意味について検討したいと思います。
この「正しい」ということを、「科学的にも正しいはずだ」あるいは、「聖書に書かれた字義のとおりに正しい」とす る考え方もあります。ふつう原理主義というとこの辺の考えをいうのだと思いますが、佐倉さんのサイトの内容は、このような考え方への反論というより、単に聖書の記述の矛盾を示したものだと私は理解しました。先ず、明確にしておきたいのは、「キリスト教原理主義者(ファンダメンタリスト)」と呼ばれているクリスチャンの立場は、すのはらさんがおっしゃるように、以上のように「正しい」ということに対して異なる理解があるため、このサイト の内容が、聖書を字義どおり に正しいとする考えに相対するものだとしても、この点についてこのサイトの内容を誤解される方が多いので はと思うのですが、いかがでしょうか。
「科学的にも正しいはずだ」あるいは、「聖書に書かれた字義のとおりに正しい」とする考え方ではありません。そうではなくて、聖書を字義通りに解釈するにしろ、あるいは象徴的に解釈するにしろ、あるいはまた科学的に解釈するにしろ、あるいは科学の限界を示唆することによって超越的に解釈するにしろ、つまるところ、聖書に一切の誤謬を認めないように聖書解釈を工夫するのが、ファンダメンタリスト・クリスチャンの立場です。「字義のとおり」どころか、まったく逆に、聖書に誤謬がないように解釈するために様々な拡大解釈を許容するところに、その決定的特徴があるのです。
このサイトはそういう聖書観に相対するものと僕は考えています。僕の吟味の対象はもちろんファンダメンタリストの方々ではなく、その聖書観です。「聖書はいかなる誤謬も含まない」ということを聖書研究の犯すべからざる第一前提としてしまえば、真理の主張が知識を根拠としてではなく権威を根拠としてなされることを意味するからです。したがって、僕のこのサイトは「聖書はいかなる誤謬も含まない」という前提(タブー)を、意図的に公然と脱落させ、間違いであると思われるあらゆる例を公開して、皆さんと一緒に検討しようと思っているわけです。
そうすると、「間違っている」の意味が問題になりますが、これについてはすでに「はじめに」の「何を根拠に間違いを断定するのか」で説明してあるとおりです。したがって「間違っている」(正しくない)という表現で僕が何を意味しているかは、読者の方に理解していただいていると思っています。
しかし、今回は別の角度から、「正しい」の意味について考察してみたいと思います。とくに、「正しい」とか「間違い」という判断の対象となるものは何か、という問題についてです。
「正しい(真)」あるいは「間違い(偽)」という判断の対象は文です。書かれたものにしろ、語られたものにしろ、あるいは「頭の中」に形成されたものにせよ、真偽の判断の対象は文です。よく、「聖書の一語一句が正しい」といった表現がなされますが、それは文法的に誤った表現です。単語や句は真偽の対象にはならないからです。「<ヨルダン川>は真か偽か」とか「<ヌンの子ヨシュア>は真か偽か」といった表現は意味をなしません。「ヨルダン川」や「ヌンの子ヨシュア」は文ではなく、単語あるいは句だからです。しかし、「<[イスラエルの人々は]その月の十四日の夕刻、エリコの平野で過越祭を祝った>は真か偽か」と問うことはできます。ここでは真偽の判断の対象となっているのが文だからです。この例でいえば、その時その場でイスラエルの人々が過越祭を祝ったのであれば、この文は真となり、そうでなければ偽となります。
もちろんすべての文が真偽の判断の対象になるわけではありません。命令文や疑問文などは真偽の判断の対象になりません。「<強く雄々しくあれ!>は真か偽か」と問うことは文法的なあやまりです。疑問文も同じです。したがって、真偽の判断の対象となるものは、命令文や疑問文など「真か偽か」を問うことが文法的なあやまりとなる文を除いた、平叙文だけということになります。常識的に考えてもそうだと思います。そこで、このような平叙文を一応「主張文」あるいは単に「主張」と呼んでおきます。
そこで、聖書の中から、主張文だけをすべて取り出して、各々を
S1, S2, S3, ... Snとします。たとえば、
S1 = 「初めに、神は天地を創造された。」 S2 = 「地は混沌であった。」 S3 = 「闇が深淵の面にあった。」 . . . Sn = 「以上すべてを証する方が、言われる、『然り、わたしはすぐに来る』と。」といった具合です。もちろん、聖書の中には神に反逆する者の言明も沢山含まれているし、比喩や寓話などもありますから、これら S1...Sn のすべては、そのようなコンテキストを踏まえて、聖書の著者自身が真実として認めていると思われるものだけを、正しく選択をしたものと仮定します。
そうすると、「聖書はすべて正しく、一切の誤謬も含まない」という主張の厳密な意味は、
S1は真であり、かつ、S2は真であり、かつ、S3は真であり、…かつ、Snは真である。ということになります。すのはらさんのいわれる「聖書すべて(entirely)」がどのような意味を持つのか、僕にはわかりませんが、「正しい」か「間違っている」のは文だけですから、以上のようなものが「聖書はすべてが正しい」という言明の意味とならざるを得ないと思います。
最後に、
「正しい」と「神のみことばである」を等しいとするとする背後には、キリスト教の信仰が 前提となっています。したがって、"信仰を持って読むとき、聖書はすべて神のみことばとし て正しい"と言えると言われている点は、僕には理解しかねます。「神の語られること=正しい」という信仰があっても、そこから、「聖書が神の言葉である」という結論は導出できないからです。「聖書が神の言葉である」と言うためには、神御自身への信仰だけでなく、別の信仰、つまり聖書というモノへの信仰が必要なのではないでしょうか。知り合いの原理主義的クリスチャン(彼はそう思っていない)との対話の中で、僕が聖書の間違いを指摘する度に、彼から「君は神がウソをつくと思うのか」とよく言われたものです。彼は自分が二つの信仰を持っていることをどうしても認めようとしませんでした。すのはらさんのおっしゃるように、神への信仰が前提となって聖書への信仰が生まれたのではなく、むしろ、聖書への信仰が先にあって、その土台の上に神への信仰が築かれているからでしょう。
貴重なご批判、ありがとうございました。