聖書の誤りについて読ませていただきました。私はアメリカのニュージャージー 日本語キリスト教会の会員です。佐倉さんがどうしてこのような文章を書き、世 間に語っているのか理解できませんが、一度ならず興味を持たれて熱心に勉強さ れたものと思います。どうぞお続けください。大変良いことだと思います。

ある本でウォーレスという人のことが書いてありました。彼は世界的に有名な 考古学者だったそうで、ニューメキシコ州の知事でもあったそうです。彼のキリ スト教批判は相当なものだったらしく、ある無神論者と組んでキリスト教撲滅運 動を行おうとしたそうです。考古学者として、エルサレムにも行き、いろいろな データを集め、いまに驚くべき本を出版してみせると言っていたそうです。その 本が出たら世界中のクリスチャンが顔を赤らめて「キリストを信じていたのは間 違っていました。」というようになるともいっていたようです。

彼は随分前の人のはずです。その本はどうなってしまったのでしょうか。まさ か佐倉さんに預けて自分はどこかへ逃げてしまったのでしょうか?

この話はおそらくご存じだと思います。彼は後に『ベンハー』という長い小説 を書きました。それは彼がその詳細にわたった研究の結果でした。調べに調べた 挙句に彼は聖書を認めざるおえなかったかったのです。そして聖書をとうして イェス・キリストを知りました。クリスチャンとなったのです。

聖書には佐倉さんのご指摘以外にも矛盾がたくさんあります。いえ正確にいう と、「私たちには矛盾と思えること」とでもいうべきでしょう。それは素晴しい ことです。なぜなら神様はただ一つのことに私たちの目を向けさせるべく、わざ わざそのようにしてある、あるいはさせたと思われるからです。矛盾に感じると いうことは、人の話を良く聴いているということでもあります。

今回私は聖書のことばを用いて、何も申し上げません。なぜならクリスチャン の歴史は、佐倉さんの否定しておられる聖霊の歴史です。聖書があっても聖霊の 助けがなければ、キリストを知ることは出来ません。次回聖書を読まれる時から は、是非とも一言祈ってからお読みいただければと願っています。

「聖書の間違い」シリーズにおける僕の目的は単純なものです。「聖書は神によって、つまり神の霊に導かれて、書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することです。このような主張は、例えば

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です(テモテへの手紙2、3章16節)
のような聖書の言葉を根拠として、ファンダメンタリスト(キリスト教原理主義者)と呼ばれる人々によって語られているものです。果たして彼らの主張は真であるか、僕はそれを吟味することにしたのです。

僕が自分の意見をこのように発表するのは批判を受けるためです。人間の知識はいつでも不完全ですから、直感や学習や経験で得たことを自他の批判によって、繰り返し繰り返し再吟味し、洗練することが必要だ、と僕は思っています。そのためには自分が考えついたことを先ず語ってみなければなりません。

ウォーレスという人について聞いたのは初めてですが、僕の考えによると、彼が後に「クリスチャンとなった」ことにはいささかも驚くべきことはありません。なぜなら、彼はアメリカというキリスト教の強い空気の中で育てられてきたのであって、お話しから察すると、初めから非常にクリスチャン的だったからです。「ある無神論者と組んでキリスト教撲滅運動を行おうとした」というような行為はまさにキリスト教的であって、ただそれを裏返しにしただけです。僕から見ると、彼は何も変わっていないのです。昨日鉛筆を売っていたセールスマンが、今日はボールペンを売っているようなものです。

聖霊に関しては、僕の表現の仕方が明晰でなかったかもしれませんが、僕がそれを「否定して」いる、というのは僕の立場の正確な表現ではありません。僕は実在としての聖霊については肯定も否定もしていません。実在としての聖霊なるものは人間の客観的経験や知識のおよぶ領域の外側にあるからです。(つまり、それは信仰の対象であって、知識の対象ではない。)聖霊について僕が言及しているのは、「聖霊はよく働かなかった」という表現だけですが、それは、間接的に得られる論理的帰結にすぎません。事実に関する直接の表明ではないのです。順序立てて表現すれば、

 (1)PならばQ     (聖霊が働いて書かれたものは、すべて正しい)
 (2)しかるにQではない (間違いがある=すべてが正しいわけではない)
 ----------------------------------------------------------------------------
 (3)よってPではない  (聖霊が働いてない部分がある=「聖霊はよく働かなかった」)
ということになります。つまり、もし「聖書は神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張を前提とすれば、僕が指摘するような間違いが聖書にあるとわかると(つまり「いかなる間違いも含まないというわけではない」と譲歩することになると)、「聖霊はよく働かなかった」ということが認めなければならない論理的結論になる、ということを主張しているにすぎません。聖霊に関する僕の主張は、それ以上でも、それ以下でもありません。

やはり、批判・批評をうけるということはすばらしいことです。自分としては、誤解のないように明確に書いたつもりなのに、実際は僕の文章がいかに稚拙であるかを、おもい知らされることになったからです。

御批評、ありがとうございました。



再び 浜田しんじさんより

ご返事ありがとうございます。

佐倉さんのお考えになられていることが少し分かりました。 しかし、それならばという点がいくつかありますのでもう一度お便りします。

まず、「真偽」を吟味することが目的であるということですが…

それならば、まず「聖書の間違い」というシリーズ名には無理があると思いま す。何故かというと、そこには否定する側としての態度しか無いからです。私 の印象としては「聖書の疑問点」、あるいは「不可解な聖書」などならば著者 の姿勢により近く、読者からの応答は、より多く期待できるでしょう。また、 理解できない箇所に明確な説明を加え、○Xをつけてしまうのも良くないこと です。それらのことは「エホバの証人」というグループがよく犯す過ちです。 彼等は命の言葉、愛の言葉として語られたものを、人を裁く道具と変えてしま いました。

ご自分の意見を発表するのは批判を受けるため…、とのことですが、

人間の知識は不完全だと認識される貴方が、「聖書の間違い」と語ってしまう のは高慢であると思われてしまいます。貴方のおっしゃる通り、もし聖書が間 違っているのならば、それによって生きている者たちに、その通りに語ること が出来ますか? 前回、名前をあげたウォーレス・ルイスという人物はそれを した人です。また、「ベンハー」という不朽の名作ぐらいはご存じだろうと 思ったので、知っていますね?とお伺いしたのです。もし貴方が彼はアメリカ 人ゆえに、そうなる行く末だったのだとおっしゃるのならば、それまた認識不 足です。われわれは多くの改心者たちを知っています。彼等は決してキリスト 教国に生まれたのではありません。日本のクリスチャンはどうでしょうか?  そのような環境に生まれた人が何人いるでしょうか? また、そのような環境 に生まれた方が本当にクリスチャンに行き着くものでしょうか? パウロの話 を聞くことの出来た人々の中には、信じる者もいれば、ますます心をかたくな にするものがいたと聖書は語っています。イェスを十字架につけた面々はどう でしょうか? 

いづれにしてもウォーレスと同じように研究されてからなら、 どのような「聖書の間違い」を指摘されても一向に構いません。聖書を読む、 あるいは聖書に聴く、という態度を我々は大切にします。前後関係や時代背 景、原語の使われ方(日本語に表わしきれない表現)などを聖霊の助けを求め ながら、「どうぞ今、わたしにお語りください」と読むべきです。 その中で矛盾と感じる所や、?と思う所があったら、その箇所こそ神が私に 語っておられたことであると後になって知ることもあります。ですから「聖書 には矛盾と思える」所がいくつもあると前回申し上げたのです。(「間違いと 思える」ではありません。) 受け方の違いこそあれ、神は私たちに同じように語りかけてくださっていると 思います。

私の様な者が偉そうに語ってしまったかも知れませんがお許しください。私と しては、聖書を読む者が、聖書を知らないのが残念でならないだけなのです。 どうか聖書の主人公であるイェスに着目してお読みください。聖書は聖い書で はなく、聖くする書であるとよく言われます。聖書には神と人間が共に歩んだ 歴史が書かれています。そのことに注意して読んでください。魚を食べるとき に背骨やエラから食べる人はあまりいません。どうぞ心から美味しいと感じる 所からお読みください。

「聖書の間違い」シリーズの目的に関しては、前回も説明しましたが、まだ僕の説明不足だったかもしれません。その目的も動機も「キリスト教撲滅運動」などではもちろんなく、聖書を否定することでもありません。もちろん聖書の総合的研究でもありません。「真偽」の吟味の対象は、聖書そのものではなく、ある一群の人々が主張している、ある特殊な聖書観がその対象なのです。もう一度、そのまま繰り返しますと、

「聖書の間違い」シリーズにおける僕の目的は単純なものです。「聖書は神によって、つまり神の霊に導かれて、書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味すること
なのです。目的がはっきりわかると方法論の適切性も判断できます。したがって、「聖書の間違い」というタイトルが、単刀直入で誤解を招かない、目的にふさわしいタイトルであると、僕は思っています。また、聖書のポジティブなところにも注意を向けるべきである、というご意見はごもっともと思います。聖書が極めて優れた宗教書であることは疑う余地もありません。しかし、「聖書の間違い」シリーズの持つ特殊なテーマから見ると、的外れであると思われます。本シリーズの目的と方法論については、新しく「はじめに」を加え、詳しく説明しました。一般の興味でもあると感じたからです。

聖書はいろいろな読み方ができます。聖書に救いを求める読み方もあれば、聖書を考古学の資料として見る読み方もあります。また、聖書を文学書として見る読み方もあれば、単なる西欧文明に関する教養として見る読み方もあります。僕の聖書とのつき合いはもう20年以上になります。「聖書の間違い」シリーズは、その中の小さな一つにすぎません。インターネットはさらにもっと聖書のいろいろな見方を教えてくれる場所となるでしょう。なぜなら、インターネットは誰でも情報を発信することが出来るからです。浜田さんも、もしまだやっておられなかったら、ご自分のホームページで、ご自分の聖書への見方を発表されたらよいと思います。そうして、聖書に関する情報がますます豊富になってゆけばよい、と僕は思います。

それにしても、どうやら、浜田さんとは、聖書を学ぶことに関して幾つか根本的な相違があるようです。僕は、聖書に矛盾や間違いが明確に認められるときは、その根拠を示し、はっきりそう明言します。なぜなら、そうすることによって、僕の主張が反論可能となり、知識が発展する可能性がでてくるからです。そして、はじめから、聖書に間違いの可能性を認めない方法も取りません。聖書を信じることが目的ではなく、聖書を知ることが目的だからです。

ご感想ありがとうございました。