なんどもいろいろな方から発言が出ていますが、私もこの一文に関しては納得ができないため、メールいたしました。

まず、takeさんが以前に意見されている通り、本文中には旧約聖書からの引用しか存在していません。どちらかというと戒律としてその多くが存在する旧約に対し、イエスキリストという新しい契約を持つ新約より引用がないのは大変問題と考えます。

takeさんへの返答としてさらにヨハネの黙示録を上げていらっしゃいますが、2つの 点で問題です。

1.黙示録の5章・6章は具体的は教えではないこと。

2.7つの封印と7つのラッパはまさに”神の怒り”であって、”信徒への殺人命令”ではない。

ことです。

単なる終末論だけでなく、当時の各教会の惨状に対する警告であることも考えなければいけません。どちらかというと”このままでは神の印は押されない”、”今のままでは神の敵となってしまう。”といいたいのだと思いますが。

非常に寓話的部分も多い黙示録もってキリスト教が殺人を容認しているとか、殺人の教えがあるというのは危険であると考えます。また、他の部分で指摘されている通り、聖書はある一人の人物が著作・編纂したものではありません。

これをもって”新約聖書は激しい復讐心にかき立てられて書かれた<復讐の書>です。 ”とはかなり乱暴と考えざるを得ません。 それこそ”キリスト教否定をしている”といわれても仕方ありません。

私はもともとキリスト教の教育の中で育ちましたが、聖書を仮にヘブライ語で呼んだとしても一字一句正しいとは考えていません。

キリストや12使徒が旧約の記述について新たな解釈をし教える部分は多々あります。中には否定とも考えられる表現もあります。(有名なのは使徒が安息日に麦を刈り食べたことですが。)また、教義に関して使徒同士が議論する場面もあります。(使徒行伝などに多いです。)聖霊にみたされている使徒同士が議論するのです。神の表現が文体によって変わるのは仕方ありません。

違う人間とはいわれていますが”ヨハネ”という人はダイナミズムを重んじすぎ、お話になってしまうきらいがあります。ですので、ヨハネの文章は私の知っている教会ではほとんど外典のような扱いをする場合が多かったです。

聖書には矛盾点はあります。ですがそれが聖典としての聖書の価値を下げるものだとは思わないのですが。

まとまりのない文章ですがご一読していただければ、幸いです。

1.ヨハネの黙示録の正典問題

ヨハネの文章は私の知っている教会ではほとんど外典のような扱いをする場合が多かったです。
そうでしょうねえ。歴史的に見ても、西側(ローマ)の教会ではヨハネの黙示録は最終的にやっとのことで正典に取り入れられましたが、東側(ギリシャ)の教会では、10世紀まで論争が続いており、今でも正典に入れてない教会があると聞いたことがあります。かのマルチン・ルターもヨハネの黙示録によい評価をあたえなかったと言われています。


2.キリスト教と復讐心

これをもって”新約聖書は激しい復讐心にかき立てられて書かれた<復讐の書>です。 ”とはかなり乱暴と考えざるを得ません。
キリスト教は、たとえば一時期のユダヤ教やイスラム教やオウムと同じように、終末論的宗教であり、終末論的宗教はまさに復讐そのものが中心的メッセージです。いままで自分たちをいじめてきた敵たちが、最後に、親分(神)の登場によってやっつけられ、自分たちが最後の勝利者となる、というお話だからです。終末論は復讐心から生まれた神話だと思います。


3.聖書の価値

聖書には矛盾点はあります。ですがそれが聖典としての聖書の価値を下げるものだとは思わないのですが。
そうですね。間違っているからと言って聖書の価値が下がるのではありません。もともと人間は間違うものだからです。「聖書は間違いのない神の言葉である」という思想の価値が下がっただけだと思います。