私もキリスト教の牧師の息子として、聖書は何度か読んでいますが、この来訪者の声に意見を寄せる信者さんたちの「人を裁く姿」は閉口しています。あれでは、信者を増やすのは無理ですね。「人を裁くな、あなたが裁かれないために」ってのが、聖書にも書いてあるんだけど、ちゃんと読んでない証拠かな。他に「くるものを拒まず、去るものを負わず」てのもあるんだけど、自分の信じているものを揺るがす者を許せないってことなんだろうけど、それこそ信仰の弱さを露呈させてる行為だと思うな。自信があるなら堂々としてりゃいいじゃん。と思うわけです。
とか言って、牧師の息子でありながら、私って全然信じてないんだけど。理由は佐倉さんほど、理論的でも高尚(?)でもないんだけど、自分なりの理論で信じてないわけです。
・・・で、理論どうこうで話をすると私、ボロ出まくりだと思うので、感情論でいうと、神が聖書に書いてあるとおりの存在だとすると、我々を含むすべての存在が漫画の絵か人形劇の道具ってことになると思うんですよ。「全ては神の許し無しにはなりたたない」わけですから。すべては始めから神の考えたストーリーがあって、悪役も正義の味方も始めから決まってて、可愛そうな被害者も設定済みで、我々が話す言葉の全てがストーリーにそってるだけというわけです。ここにこんなこと書いてる私の行為や言葉もすべてストーリーの内。これを読んだ誰かがあんなことを思ったりこんなことを考えたりするのも、ストーリーに添ってること。それって、楽しいのかな−。我々?
もう一つ。完全で間違いのない悔いることのない神が、聖書の中で、さんざっぱら悔いたり、後悔したり、思い直したりするのは何故?なんて事を考えてると、信者でいられる人たちが不思議で不思議で。
完全で間違いのない悔いることのない神が、聖書の中で、さんざっぱら悔いたり、後悔したり、思い直したりするのは何故?古代イスラエル人たちがイメージした神像(聖書の神)は、明らかに、人間(とくに絶対王)の姿をしています。なにもないところから、見えない神の姿を想像することはできませんから、どの地域のどの時代の神であろうと、古代人たちのイメージした神像は、すべて、古代人の実際の生活の中にある具体的なもの(人・動物・自然現象)を投影したものです。
聖書を読めば明らかなように、聖書の神(ヤーヴェ)はもともと敵から古代イスラエル人たちを助けてくれる軍神・最強の王としてイメージされています。救い主・軍神・「我らの王」を極限まで理想化したのが「全知全能の神」ということになります。その方が自らの救いに都合がいいからでしょう。ところが、もともと、古代イスラエル人たちの心の中の神像というものは、「理想的な王」と言っても人間のイメージの投影ですから、かれらの描く神像は人間の性質を、ついつい、もってしまうのだと思います。