お返事ありがとうございます。
佐倉さんはもとクリスチャンで現在でも多くの信者のひとが信仰の問題で悩んだり、問いかけをしているとのことですが、まさにそこにこそ宗教の問題があると思います。
たしかに敬虔な信者というものは真剣にその教義の原典を信仰、つまり‘信じて’いる人々です。つまりたとえばキリスト教信者の人にとって原典である聖書の記述は「事実」でなければならないわけです。信仰する人々にとってまず、原典の教えをうけいれることが第一で、宗教というものはまず、この‘信じる’という行為そのものに力点がおかれているわけです。
わたしの立場は違います.。わたしにとって重要なことはある書かれた事実を「信じる」ことではなく、事実そのものを「知る」ことにあるのです。なにが起こったのか、なにがその事件・記述の背後に存在しているのか、その出来事を引き起こした力はなにか、そしてそれを広く人々に信じさせるようになったものは何か、などを知ることなのです。わたしにとって、そのような歴史や人間の背後にある真実を『知る」ことこそがそれこそ信者にとっての神の信仰と同じくらい重要なことであって、そのまま記述や事実とされていることを「信じる」ことではありません。たしかに実際にキリスト教や他の仏教とかの宗教でも、まずその教えを公理のように「信じる」ことからはじめるべきだ、とそういった宗教の関係者から何度も聞いたことがあります。しかし、そのような頭から「信じる」という態度はわたしのまず本当かどうか事実を「知る」という態度からは相容れないものといわざるをえません。
もし、わたしがたとえばキリスト教を信仰する場合でも、そのような頭から聖書を信じる-一字一句間違いのないものとして-ということはしないでしょう。もし聖書の教えに人間が生きるための教訓や知恵があるとするならば、それを肯定した上で,なおかつ、部分的に批判的な個所や間違っていると思われる個所を徹底的に追求するでしょう。それが本当の理性ある「信仰」というべきだと思います。しかし、多くの(特にファンダメンタリストなどは)信者はそうでなく、全体そのものを無謬のものとして受け入れたいようです.。それこそわたしにいわせれば『信仰至上主義」といわざるをえない。そのような大きく信念そのものにかたよったようなやり方は中世の時代に卒業すべきだったと思います。
わたしにとって神そのものの存在もさることながら、人間の造ってきた歴史の中に大きな力が働いてきた、ということ自体、大きなテ−マで、自然界の中につねに自己をこえた法則とそれを動かす自立的な力が存在しているということは畏敬の念にたえません。そして神の存在は決してひとつの宗教への帰依・信仰で求められるものではなく、世界中の膨大な神話とそれにかかわってきた人間の歴史の中で普遍的に浮かび上がってくるものなのです。それは聖書や他の経典のなかに「答え」がかかれているというものではなく、わたしにとっては、神話やひとつひとつの人間の行動、あるいは語り継がれる「神の物語」の背後にその力を見出せるものだと思います。経典は「神」-もしくは超越的な法則を理解する・暗示される手段になっても、そのものが神格化・絶対視されるものではないと思います。
以上が私自身による神・宗教への態度です。
福岡さんの考えは、あのすぐれた神話学者ジョセフ・キャンベルに近いように思われます。
たしかに、神が存在しながら、例えば、その神は何千年もイスラエルの民だけに語り働きかけたが、世界中の他の人間には見向きもしなかったというような聖書中心主義の歴史観などは、あきらかに、道理にあわない、おかしな話です。神が本当に存在するなら、世界中のすべての民族に語りかけ・働きかけていたはずです。そう考えるほうが、はるかに、道理にあっています。