歴史は歴史、寓話は寓話、分けて読めつってんの。つったらきっと、創世記一章は詩(つったって、神の創造の事実を伝えてるんじゃないって言ってるわけじゃないぞ、創造の事実を歌にして歌ってるから化学的に読むなって言ってんの。)、アダムとエバは史実っておなじ本の中で分けるのは、調子が良いって言われるんだろうけど。
まあ君の場合は人の話をほんとに聞きたいんじゃなくて、揚げ足取るために聞いてるみたいだから、こっちの書いてる事をこっちの意図どうりには読んでくれなくて、こっちの言ってる事が矛盾しているような意味にしかとってくれないんだろうけど。
22歳とか42歳とかだいぶこだわってるみたいだけど、まさかそれでユダ王国も無く、アハズヤなどという人物も架空だとは言わないでしょ、君の方法論に感じる根本的な問題は、ちょっと違ったら全部、嘘って言い切っちゃうところ。 そんな事いってたら歴史学とか、考古学とか成り立たなくなっちゃうんだから。 それどころか、裁判とかで事件の経緯だって立証できなくなっちゃうんだよ。 一方で775人他方で652人って書いてあったら、大体700人くらいの人だったんだろうって事になるでしょうが、普通。
君の言ってたのであたってるのは、僕の言ってる事で証明は出来ないってやつ。 まことにその通り、僕がしたかったのは証明じゃなくて護教だったんだ。つまり聖書に立脚するキリスト教信仰は、非論理的ではないって事の証明。 その使命はちゃんと果たせたと思うよ。まあ君には、こっちの意図と違う解釈されてる部分があるから、これ読んだあともう一回前のやつ読んでね。 そしたら、俺、そんなに無茶なこと言ってないって事がわかると思うよ。
あと、聖書主義者のことをみんなファンダだって言うなら、別に俺ファンダって言われても良いよ。 ジェームス・バーの定義の中に俺、入ると思うし、ただ、
聖書が書いていることを、書いてあるままに解釈すると、聖書に間違いがあるという事態に陥ってしまうので、そういう場合は、書いてあるままに解釈してはならない。ただし、間違いがあるということにならなければ、書いているままに解釈してよろしい。大切なのは、聖書が何を語ろうとしているかを知ることではなく、聖書には間違いがないように解釈することである。君のこれは、そのまま受け止められない。まず「書いてあるままに」って言うのは一括りに「聖書」って考えて、さらに聖書以外のオリエント、ギリシャの古文書や文学を研究した事の無い君が考えるほど簡単じゃない。 それに、最後の一文は「大切なのは、それぞれの聖書記者が何を語ろうとしたのかを、知る事ではなく、聖書は間違いだらけであるかのように解釈する事なのである」ってパロったら、そのままそっちに当てはまると思うよ。
んじゃまた返事頂戴まったねー
僕がしたかったのは証明じゃなくて護教だったんだ。つまり聖書に立脚するキリスト教信仰は、非論理的ではないって事の証明。その使命はちゃんと果たせたと思うよ。ひとしさんのご意見は、わたしの聖書主義批判に対する批判にはなっていない、それどころか、その主張には根拠がなく、しかもそのことに気がついていない、というのがわたしの前回の結論です。ひとしさんが、「[護教の]使命はちゃんと果たせた」と思っておられるのは、まだ、そのことに気がついておられないからです。それほどむずかしいことを言っているわけではないのですから、もう一度、ゆっくり読み返してみてください。ここにそのまとめを繰り返しておきます。
(1)聖書は、単なる寓話やフィクションではなく、歴史的事実について語っている。(2)また、クリスチャンは、聖書を単なる寓話としてではなく、歴史的事実を語るものとして読まざるを得ない。
(3)もし聖書が間違いのない神の言葉ならば、聖書に書かれているというだけで、それが真理であることが主張できる。
(4)しかし、聖書には、歴史的事実報告に関して、たくさんの間違いがあることが発見された。
(5)したがって、「聖書に書かれている」という理由だけでは、その主張が真理であることはもう主張できない。
(6)しかるに、ひとしさんは、「聖書に書かれている」という理由しかないのに、それだけで、キリスト教のドグマを正しいと、まだ、主張している(信じている)。
(7)ゆえに、ひとしさんは、自分の主張している事柄が、実は、主張できないシロモノだ、ということにまだ気づいていない。
1.クリスチャンは、聖書を単なる寓話としてではなく、歴史的事実を語るものとして読まざるを得ない。
歴史は歴史、寓話は寓話、分けて読めつってんの。・・・(つったって、神の創造の事実を伝えてるんじゃないって言ってるわけじゃないぞ・・・)聖書には、もちろん、たとえばイエスのたとえ話のような寓話も含まれていないわけではありませんが、一貫して、歴史の中における神の働きをその基本テーマとしています。クリスチャンの救いが、歴史の中における神の救済の働き(イエスの死と復活)に依存しているのも、そのような聖書の伝統に従っているからです。そこに、始めから創作品として書かれたイソップ物語のようなものとは、まったく異る聖書の事情があるのです。
だから、聖書主義者は、聖書の誤謬の事実を突きつけられると、一応、「歴史は歴史、寓話は寓話、分けて読めつってんの」と外に向かって言い訳はしてみるものの、「(つったって、神の創造の事実を伝えてるんじゃないって言ってるわけじゃないぞ・・・)」というふうに、結局のところ、みずからの心の中では聖書を事実を伝える書(歴史書)として読んでいることを告白せざるを得ないわけです。
それが、「聖書は、単なる寓話やフィクションではなく、歴史的事実について語っている。また、クリスチャンは、聖書を単なる寓話としてではなく、歴史的事実を語るものとして読まざるを得ない。」(1、2)ということです。したがって、ひとしさんのお便りは、わたしの聖書主義批判に対する反批判(護教)になっているどころか、むしろ、このわたしの主張がそのまま当てはまることを、自ら立証しているのです。
2.聖書は、歴史的事実を伝える書として、信頼できるか
君の方法論に感じる根本的な問題は、ちょっと違ったら全部、嘘って言い切っちゃうところ。わたしの主張はそんなものではありません。繰り返しますが、聖書に間違いがあることがわかると、「“聖書に書かれている”という理由だけでは、その主張が真理であることはもう主張できない」、ということです。(3〜5)
しかるに、キリスト教ドグマの多くの基本的な主張、たとえばアダムによって罪が人類に入ってきたとか、イエスの死は人類の罪を贖うとか、イエスは死から復活した等々の多くの主張には、「聖書に書いてあるから」という根拠しかないわけです。(6)だから、ひとしさんは、自分の主張している事柄が、実は、認識的根拠のないシロモノだ、ということにまだ気づいていない、ということになるわけです。(7)
「聖書に書いてある」という前提から、「だから正しい」という主張は、論理的に帰結しません。また、「そうであって欲しい」という前提から、「事実そうである」という結論も、論理的に帰結しません。聖書信仰の主張は本質的に非論理的です。
3.クリスチャンは、なぜ「書いてあるままに」聖書を読むことができないか
「書いてあるままに」って言うのは一括りに「聖書」って考えて、さらに聖書以外のオリエント、ギリシャの古文書や文学を研究した事の無い君が考えるほど簡単じゃない。わたしたちの手に伝わってきた聖書が神の言葉として信頼できるかどうかが問題なのです。それがクリスチャンにとっての日々の信仰の指針だからですから。(「再び作者より河村さんへ 97年10月30日」参照。)
そして、聖書はそんなに難しい書ではありません。
エズラ(2:2〜67)これを「書いてあるままに」読むのは簡単です。それが、聖書主義者にとって「君が考えるほど簡単じゃない」のは、<聖書は神の言葉で、聖霊の導きによって書かれたものであるから、間違いのない真理である>というやっかいなドグマを引きずっているからであり、そのため「アラの一族775人」という報告と「アラの一族652人」という報告のあいだにある明らかな矛盾を直視できないからです。
イスラエルの民の男子の数。パルオシュの一族2千172人、シェファトヤの一族372人、アラの一族775人、・・・。会衆の総数は、4万2千360人であった。他に男女の使用人がいて、7千337人いた。・・・かれらの馬は736頭、らばは245頭、らくだは435頭、ろばは6千720頭であった。ネヘミヤ(7:8〜68)
イスラエルの民の男子の数。パルオシュの一族2千172人、シェファトヤの一族372人、アラの一族652人、・・・。会衆の総数は、4万2千360人であった。他に男女の使用人がいて、7千337人いた。・・・らくだは435頭、ろばは6千720頭であった。
列王記下(8:25〜26)聖書を「書いてあるままに」読めば、これらの報告の少なくとも一方は間違っていることになるために、クリスチャンにとって「書いてあるままに」読むのは「君が考えるほど簡単じゃない」のです。ドグマの奴隷となって、真実を直視する自由を失ってしまったからです。
イスラエルの王、アハブの子ヨラムの治世第十二年に、ユダの王ヨラムの子アハズヤが王となった。アハズヤは二十二歳で王となり、一年間エルサレムで王位にあった。歴代誌下(22:1〜2)
こうして、ユダの王ヨラムの子アハズヤが王となった。アハズヤは四十二歳で王となり、一年間エルサレムで王位にあった。