私は、聖書の個々の記述に矛盾を感じながらも、あまり重箱の隅をつつくことよりも、読む側の姿勢のほうが大事と考えている者です。
そう、「聖書の間違い」、聖書に記述されている内容を言葉どおりに鵜呑みに信ずることは、無理があるというだけでなく、危険でさえありますし、そのような読み方は望ましい信仰といえるのか、と疑問を感じます。
信仰告白の中から引用させていただくと(下記は日本基督教団のもの)、
旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、私も正直いって、上記例のプロテスタントのものであっても、またカトリックのものであっても、信仰告白の文面は予備知識の無いかたにはかなり抵抗がある表現だと思っています。
福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。
されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、
全き知識を我らに与うる神の言にして、
信仰と生活との誤りなき規範なり。
この「誤りなき」というのは、決して、聖書に記されている個々の事象が正しい史実であることを無条件に信じるという意味ではなく、聖書の記述を通して読む者に対して神が何を伝えようとしているのかという解釈を誤りさえしなければ、おのずと「誤りなき」ということになるということだと思います。
自分で何も考えようとしないで文面を鵜呑みに信じて「正しく信じている」といったとしても、たぶんその信徒のかたは誤っています。(笑)
ホームページに書かれてらっしゃる通り、聖書は人間が書いたものです。けっして、神が自ら筆を持って書いたものではありません。聖書の各文書を書いた過去の預言者も伝道者も人間であり、その過去の人間が「神の言葉」であると「感じた(安易な言葉で言えばですが)」その言葉が伝えられている書であるといってよいと思います。
過去の預言者や伝道者たちが聖書を書いた時代と、現在は政治的にも文化的にも背景が全く違います。それでも時代を超えて普遍的なものを読みとれるかどうかは、それを読む者ひとりひとりの問題だと思います。
私にとっては、聖書の中の個々の事実が史実と矛盾がないかとか、そういうことはあまり興味がなく、一種の「寓話(?)」としてであっても、その記述を通して、読む側が何を感じるかのほうが大事だと思います。
無条件に鵜呑みに信じようとする姿勢は、これまた極端な言い方をしてしまうと、ときどき問題になっている反社会的な新興宗教と変わらないのではないかとさえ思います。
聖書が記述に矛盾を持ちながらも、基本的には過去の原典に沿って伝えられている理由は、原典に近い記述のほうが個々の事象まで含めて無条件に正しいからという意味ではないと思います。エホバの証人やモルモン教などは、キリスト教を土台にした新興宗教ですが、本来のキリスト教からは逸脱しており、区別しなければなりません。そのように派生してくる新興宗教によって尾ヒレがつけられた教義や、読む者ひとりひとりによって異なって当然である個々の解釈に影響されず、読む者が自立して自分で考えられる土台として、できるだけ原典に沿いつつ、かつ、それぞれの時代に沿った言葉で、そのバランスを維持しながら伝えられていくべきではないかと思います。
1.重箱の隅をつつく
私は、聖書の個々の記述に矛盾を感じながらも、あまり重箱の隅をつつくことよりも、読む側の姿勢のほうが大事と考えている者です。ほとんどの日本のクリスチャンはそういう立場だと思います。「あなたが感動する聖書の言葉」とか、「生きる勇気を与えてくれる珠玉の聖句100選」といったたぐいの本やサイトが、右を向いても左を向いても、そこらじゅうに転がっています。
わたしのやっている聖書の間違い探しは、そういう読み方とは180度異なる、まさに「重箱の隅をつつく」低俗な作業です。だから誰もやらない。その誰もやらない低俗な作業をマジでやっているのがこのサイトの特徴です。
2.人間が「神の言葉」であると「感じた」その言葉が伝えられている?
聖書の各文書を書いた過去の預言者も伝道者も人間であり、その過去の人間が「神の言葉」であると「感じた(安易な言葉で言えばですが)」その言葉が伝えられている書であるといってよいと思います。どうしてそんなことが言えるのでしょうか。たとえば、新約聖書の書簡は、ほんとうに、書いた本人が自らの書いている事柄を「神の言葉であると感じて」書いたのでしょうか。そうではなく、かれら自身は、ただ単純に、信者仲間を叱咤激励するために書いたというだけではありませんか。パウロなどは、少なくとも部分的には、自分の書いているメッセージは、神の啓示ではなく、自らの個人的な意見にすぎないことを、書いた本人が明記しています。
未婚の人については、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。・・・・とわたしは考えます。聖書を書いた本人が、わざわざ、「ここに書いていることは、神の啓示ではなく、自らの個人的な意見にすぎないですよ」と念を押しているのに、どこまでもおめでたい聖書信者は、それでも、聖書は聖書を書いた人々を通じて神が語った神の言葉である、と信じているわけです。(コリントの信徒への手紙 第一 7:25〜26)
3.聖書信仰(ファンダメンタリズム)の罪
この「誤りなき」というのは、決して、聖書に記されている個々の事象が正しい史実であることを無条件に信じるという意味ではなく、聖書の記述を通して読む者に対して神が何を伝えようとしているのかという解釈を誤りさえしなければ、おのずと「誤りなき」ということになるということだと思います。聖書信仰(ファンダメンタリズム)の罪は、「文面を鵜呑みに信じ」ることではありません。聖書を「誤りなき」神の言葉と解釈するためにはどんな破廉恥な言い訳も辞さないところにあります。自分で何も考えようとしないで文面を鵜呑みに信じて「正しく信じている」といったとしても、たぶんその信徒のかたは誤っています。(笑)
「聖書の記述を通して読む者に対して神が何を伝えようとしているのかという解釈を誤りさえしなければ、おのずと「誤りなき」ということになる」などという強引な言い訳は、まさに、典型的なファンダメンタリストのそれと言えるでしょう。
この問題については、もうすでに、「ひとしさんへ 2001年6月14日」に おいて、「ファンダメンタリストのごまかし術 その二:ファンダメンタリストとは文字通り主義者だ、と思わせる」でくわしく述べましたので、そちらを参照してください。ichougaijouさんのように、自分はファンダメンタリストではないと思い込んでいるファンダメンタリストが多いからです。
聖書を書いた本人が何を書こうとしたかさえも無視して、一方的に、信者側の「聖書は誤りのない神の言葉であるべき」という自前勝手な欲求押し付けて解釈するのが、聖書信仰(ファンダメンタリズム)の罪です。聖書に何が書いてあるかを知ることではなく、聖書が誤りなき神の言葉であることの方が大事なのです。聖書信仰者は、ドグマの奴隷となりさがって、真理の裏切者となったのです。