二人の強盗の矛盾についてですが、
マタイ27:45この「闇」が神によって奇跡的に起こされたもので、その光景、およびイエスの態度をみることによって気持ちが変化し、イエスが神の子であるという確信が生まれたのではないでしょうか?
マルコ15:33第六時以後、闇が全土に垂れ込めて、第九時ごろにまで及んだ。
この刑を執行したローマの仕官もイエスが亡くなった直後の地震や神殿の垂れ幕が裂けるなどの奇跡的な現象をみて「確かにこれは神の子であった」と宣言していますし...。
二人の強盗の矛盾についてですが・・・この「闇」が神によって奇跡的に起こされたもので、その光景、およびイエスの態度をみることによって気持ちが変化し、イエスが神の子であるという確信が生まれたのではないでしょうか?
「二人の強盗の矛盾」は、一つの報告(マタイ・マルコ)では、二人の強盗が両方ともイエスをののしったことになっているけれど、他の報告(ルカ)では、二人のうち一人だけがののしり、もう一人はイエスを信じたために、イエスとともに楽園にあるであろうことを約束される、という報告になっているという矛盾です。
そこで、マタイ・マルコの報告には書かれていないこと、すなわち、最初は二人ともののしっていたが、奇跡などがおきたので、そのうちの一人は「気持ちが変化」した、と解釈すれば、この矛盾を調和化することができるのではないか、というのがご質問の趣旨です。
しかし、ルカの報告を読んでいただけたらわかりますように、最初は二人ともののしっていたが、奇跡などがおきたので、それから、そのうちの一人は「気持ちが変化」してイエスを信じるようになった、というふうにはなっていません。
むしろ、一人の強盗がイエスをののしるやいなや、ただちに、もう一人の強盗はそれをたしなめて、イエスを弁護し、イエスへの信仰を表明しています。ルカの報告では始めから二人の強盗の立場は異なっているのです。しかも、イエスを弁護しイエスへの信仰を表明した(39〜40節)のは、イエスが十字架につけられたときで、そのときはまだ「兵士達も近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱」していた(36節)のです。「闇」の奇跡がおきる(44節)のはその後の事です。
それに、マタイやマルコが、二人の強盗のどちらもイエスをののしったことだけはちゃんと書いておきながら、イエスを弁護しイエスへの信仰を表明することによってイエスとともに楽園にあるであろうことをイエス自身に約束されるというもっと重大なことを知っていて書かなかったなどということは、とても考えられません。無責任です。むしろ、マタイやマルコの伝え聞いた伝承ではそのようになっていなかった、というのがもっとも自然で無理のない解釈です。