質問なのですが、なぜキリスト教には“宗派”と言うものが 存在するのでしょうか? イエス キリストが絶対的存在であり、 聖書が唯一の真実であるならば、宗派による解釈の違いなど 存在するのはおかしいと思うのですが。やはり宗派の存在は、 人間が神と言う存在について単に聖書に基づいて 人々が勝手に解釈をしているだけなのでは? そして、その解釈 の違いが宗派の存在につながっているのではと考えています。 因みに、私がホームステイしたキリスト教原理主義の家族は、 「我々はnon-denomination, つまり無宗派なんです。」 と、宗派の存在を批判していました。
佐倉さんは宗派の存在をどのようにお考えですか?
佐倉さんは宗派の存在をどのようにお考えですか?キリスト教に限らず、「宗教」と呼ばれているものにはすべて、さまざまな宗派があります。ご指摘されている問題は「宗派」だけではなく、「宗教」そのものが、どうして、こんなにいろいろあるのだろう、という問いにしても同じでしょう。
理由はいろいろ考えられますが、その大きな理由は、「宗教」というものが、神だとか、死後の世界だとか、魂だとか、前世だとか、霊界だといった、人間の認識の届かない領域に関していろいろ主張するからでしょう。人間の認識の届かない領域に関する主張なら、それは知識ではなく、個々の単なる憶測(思い込み)に過ぎないわけですから、さまざまな宗派や宗教が生まれてくるのは、当然すぎるほど当然だと言えるでしょう。
例えば、オウム真理教の教祖である麻原彰晃は自らを「キリスト」とか「最終解脱者」などと主張していますが、ライバルの幸福の科学は麻原彰晃を「石川五右衛門の生まれ変わり」だ言っているそうですし、幸福の科学の教祖大川隆法は自らを「ブッダの生まれ変わり」とか「エル・カンターレ神」などと主張していますが、ライバルのオウム真理教は大川隆法を「タヌキの生まれ変わり」だと言っているそうです。この二つの宗教の主張に違いが生まれるのは、「前世」というようなシロモノが、人間の認識の届く領域内の事柄ではなく、個々の勝手な憶測や空想にすぎないからです。
キリスト教の諸派の主張が違うのも同じ理由からです。神だとか、サタンだとか、死後の世界だとか、魂だとか、天使だといった事柄は人間の認識の届かない領域なのですから、それらについて何か主張するということは、個々の勝手な憶測や空想を語るということ以外の何ものでもありません。キリスト教における多様な宗派の存在は必然的なものです。