ホ−ムペ−ジを読ませていただきました。ずいぶんと深く研究されているみたいで、 たいへん参考になりました。ある意味でこのような論理的、実証的な追求は日本人離れしていて、たぶん本場の神学者かファンダメンタリストとでもやりあうのでなければ、単にもっと素朴な信仰のよりどころとしている人とは、ただ議論がすれちがってしまうかもしれません。

私自身は比較歴史学(宗教をふくむ)を研究していて、中東の歴史や宗教、もちろん聖書にも興味を抱いています。おっしゃるとおり、聖書の記述はすべてが真実ではありません。史学の立場では、その時代のもつ偏りや人為的な誤り、またいろいろな思想的なポジションをさしひいて、そのなかから、いったいどれが歴史上の事実か、あるいはその伝承が信じられるようになった背景などを研究します。たしかに聖書においても一神教のもつ偏りや、独特の象徴的な語り口、また、それを書いた人々の思想的な葛藤から、かなり片寄った内容になっている場所がみうけられます。反面、現代に過去を知る貴重な資料をもたらしてくれる個所もあります。純粋な信仰が語られているところがあったかと思うと、税金の納め方や民法など、のちのイスラム法が引き継ぐ生活の規範-当時の人にとっての-それゆえ現代人にとってはあまり役に立たないかもしれない-部分もあります。また、いわれるとおりメソポタミアの神話や他の神話の影響をうけて成立しているところもあります。

そのように解釈して読む限り、聖書はまさに古代を知る貴重な資料の宝庫なのです。ただ、それを読みこなすには条件があり、特にファンダメンタリストの人々のように絶対的な事実として考えることははなはだ危険で、わたしたちの立場と違うといわざるをえません。わたしは日本の神話も研究していますが、かれらの態度は、戦前の日本の軍国的な教条主義の態度とかわりありません-本当はそれ以上だと思います。(ここで日本の神話の名誉のためにいっておきますが、おそらく、それは聖書やギリシャ神話と同じくらい貴重な価値のある歴史的な内容をふくんでいると思います。)問題は、あまりにもいままで教会が教条主義的に無批判に聖書を’信じる’ことに比重を置きすぎたことでしょう。まあ、宗教というものは古来から’信じる’ことで人間の世界を拡大させるためのものですから、それは仕方ないのですが、いつか真実を’知る’ために聖書を読んだら、そこにはもっと大きな世界が書かれていることに気づくと思います。

本当にひとつの資料を読みこなすには、実証的な検証と批判精神が必要ですが、ある意味で管理人さんのアプロ−チは必要なプロセスだと思います。そういう意味でこのサイトを検証のために使わせてもらいたいと思います。よろしくおねがいします。

追伸

論理学的な追求も面白いですが、ほかに異端とされた中近東での聖書の原話-たとえばリリスの話など-や、その他のヘブライの伝承との関係を調べるのも面白いですよ。また、モ−ゼの時代のエジプト、ソロモン王のときのパレスチナの他の民族との本当の関係を知るのも政治学的にみて興味がそそられるとおもいます。実際、聖書を注意深く読むと、一神教の教えどころか、歴史的にかなり、妥協と民族的な葛藤の産物であることがわかるのですが-それ以上に強い砂漠の一神教の論理に真実が隠されがちなのは残念なことです。

単にもっと素朴な信仰のよりどころとしている人とは、ただ議論がすれちがってしまうかもしれません。・・・

論理学的な追求も面白いですが、ほかに異端とされた中近東での聖書の原話-たとえばリリスの話など-や、その他のヘブライの伝承との関係を調べるのも面白いですよ。

クリスチャンにとっては、「聖書が神の言葉であるかいなか」というのはとりわけ重大な問いだと思っています。なぜなら、それは自分と神との関係に関する問いだからです。したがって、クリスチャンにとっては、「聖書に間違いがあるか」という問いは、面白いかどうかということだけの問題ではないわけです。わたしはクリスチャンだったので、どうしても、このような問いになってしまうのです。わたしは、自分の知りたい問いに答えを出そうとしているだけなので「議論がすれちがって」も、別にどうということはありません。

福岡さんも、「自分と神との関係」とかについても、考えたりされますか。