佐倉さん、こんにちは。大変念の入ったHPです。このページを、進化論者の人から紹介されました。私も岡山県の人間でプロテスタントです。あなたが岡山の人と聞いて、なぜか納得、少し自慢しています。

聖書は完全か、不完全か?あなたと同じ疑問を、ずっと持ってきました。しかし、今回あなたのHPを読ませていただいて、私なりの結論を出せたようなので、お送りしようと思いました。


1.「聖書は神の霊によって書かれたものであり、いかなる誤謬も含まない」?

「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することです。たとえ神の導きを仮定したとしても、実際に聖書の各書を書いたのは不完全な人間なのですから、それはきわめて疑わしい主張のように、わたしには思われるからです。

(佐倉さんの文章の引用)

おっしゃることがよくわかります。つまり、「なぜ、不完全なのか?」それを、人間は聞きたいのです。私たちは、聖書に完全性を期待しています。どこからどう切り込んでも、どのような切り口でも、常に完全でいて欲しい。「完全」を主張するものに対しての、不完全なものの、ある種の甘えです。あなたは、できれば聖書の完全性を、信じていたい、もしくは、信じていたかったんじゃないかな、と私は想像します。もし、自分の望むとおりに完全であるなら、信じていたい、いや、完全であってくれ、と。


2.なぜ不完全なのか?

私の結論はこうです。「それは証しの書であるから」上記に引用しましたあなたの言葉は、キリスト教義として完全なものです。しかし、これは、教理です。教理は、人間の思索の結集されたものであって、神ご自身のメッセージと、必ずしも一致しません。それでも、おおむね真実である場合が多いので、人間は、聖書を読む時に、教理をたよりに読むのです。「証し」は、人のすることです。そういう意味から言えば、教理も、証しの一つです(ちょっと、無理あるか)。人は完全ではなく、人が伝えるものも完全ではなく、有史以来、教会史においても、人が完全であった時代はありませんでした。「なぜなら、神は、すべての人を憐れもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。(ローマ11:32)」人に間違いがあること、これは神の計画の一部であると考えます。


3.しかし、不完全であるが、実は完全なのである。

すなわち、神ご自身を証しするには完全なのです。この間違いさえも、証し人が不完全であるということの証明として、完全性のうちに含まれていると考えます。神は、この不完全を神ご自身の証明に実質上影響しないことと容認された上で、この不完全を含む聖書を完全とされた。


4.「聖書が不完全で、いいと思ってるの?」

かまいません。完全なのは、聖書ではなくて、神さまだからです。私たちは聖書さまを信仰しているのではなくて、聖書に証しされている活ける神ご自身を信じるのです。


5.「聖書一書で十分」?

それも、教理の言葉です。聖書がそう言っているのでしょうか?「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、私について証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るために私のもとに来ようとはしません。(5:39-40)」聖書は、証言こそすれ、永遠のいのちを得るためには、キリストご自身のところに行かなければならないと、キリストが言っておられます。どれほど精通しても、聖書一書だけでは、永遠のいのちには不十分なのです。 聖書は、聖書そのものによって完全なのではなく、人の魂に神が働きかけ、神がその書を用いることにおいてこそ、完全である。 神は、人の魂にご自身を住まわせられる。魂のうちに住まわれる方は、完全でも、その魂が言葉を尽くしたからといって、その言葉は完全ではない。どのように言葉を尽くしたとしても、ある人にとっては完全である証しも、他の人には不満足なものである。しかし、証しした人とその内におられる神との関係は、内住の事実があるという点では完全である。 誰でも、ある人物に関して、どのように詳しい説明を受けても、それで、「その人を知っている」と言ってはいけない。「その人のうわさはよく聞いている」と言えるのみ。しかし、当人に会って、話しをしたなら、そのときはじめて「その人のことを知っている」と言える。説明では不十分なところも、会って話す時になぜか納得する。 聖書にも、そのような使命がある。当人である神に引き合わせるところまで連れていく。そのためには、聖書は完全である。

 明言できることは、神お一人以外に、単独で完全性を主張できるものは世には「ない」。たとい聖書であっても。神は、ご自身以外に、世に完全なものの存在を望まない、もしくは、許さない。(どちらかは不明。)世のすべてのものは、活ける神の助けを受けてはじめて完全でありうる。

   神ご自身に出会い、その完全性を受け入れた時には、信仰によって、聖書はあなたの心の中で完全なものとなるでしょう。

1.「不完全であるが、実は完全なのである」という主張は正しいか

「[聖書は]不完全であるが、実は完全なのである」という主張は、「『聖書は不完全である』というのも事実であるが、『聖書は完全なのである』というのも事実である。どちらも事実である」という主張です。このように、

Aという主張も、Bという主張も、両方とも事実である。
という主張は、もしAという主張かBという主張のどちらか一方が事実ではないとしたら、これは間違っていることになります。「両方とも事実である」というのがこの主張だからです。

それでは、「聖書は不完全である」(A)という主張と、「聖書は完全なのである」(B)という主張は、どちらも事実なのでしょうか。普通に読めば、この二つの主張がどちらも事実であるということはありえません。なぜなら、「聖書は不完全である」(A)というのは「聖書は完全ではない」ということですから、もしそれが事実なら、「聖書は完全なのである」(B)という主張は間違っていることになり、逆にまた、「聖書は完全なのである」(B)というのは「聖書は不完全ではない」ということですから、もしそれが事実なら、「聖書は不完全である」(A)という主張は間違っていることになるからです。

すなわち、「聖書は不完全である」(A)という主張と、「聖書は完全である」(B)という主張のどちらか一方が正しいとすると、他方は必ず間違っているという事になりますから、普通に読めば、「[聖書は]不完全であるが、実は完全なのである」という主張は間違っている、という結論になります。


2.「完全」の意味は?

しかし、麻生さんの「[聖書は]不完全であるが、実は完全なのである」という主張は、普通に読んではいけないのです。「聖書は不完全である」(A)という時の「完全」という表現と、「聖書は完全である」(B)という時の「完全」の表現を、麻生さんは同じ意味に使っておられないからです。前者(A)の「完全」は「間違いがない」という意味です(そうでなければわたしの主張とは何のかかわりもありません)が、麻生さんの使い方によれば、後者(B)ではそうではありません。たとえば、

聖書にも、そのような使命がある。当人である神に引き合わせるところまで連れていく。そのためには、聖書は完全である。
などと説明されています。この場合の「完全である」という表現は正しい日本語の使い方ではありませんが、要するに、聖書は、人をキリスト教信者にさせる手段としては、充分に有用である、と言おうとされているわけです。この「充分に有用である」ことを、強引に、「完全である」と表現されているわけです。つまり、前者(A)では「間違いがない」という意味で使われている「完全」の意味が、後者(B)では、「充分に有用」といった意味に、秘かにすり替えられて、使用されているのです。

(注:ところで、「神に引き合わせるところまで連れていく」と「キリスト教信者にさせる」とは違うと思われるかもしれませんが、「神に出会う」とか「神を知る」などというクリスチャン特有の表現は、よくよく追及してみると、結局のところは、「神を信じるようになる」ということ(思い込み)以外の何ものでもありません。「Y.Sさんへ 01年1月7日」参照。)


3.主張の中身は?

こうして、「[聖書は]不完全であるが、実は完全なのである」という、一見矛盾した表現は、あいまいさを取り除いて、その中身を日の下にさらしてみると、

聖書には間違いがあるが、人を信者にさせるには充分に有用である
といったほどの意味であることがわかります。そうでなければ、最初に述べました(1)ように、「聖書には間違いがある(不完全である)が、聖書には間違いがない(完全である)」といった、ばからしい主張になってしまうからです。

わたしは「聖書には間違いがある」と主張し、麻生さんは「聖書は人を信者にさせるには充分に有用」と主張されているわけですが、この二つの主張は全然異なる種類のものです。ところが、麻生さんは、「完全」という、非常にあいまいな言葉に注目して、「間違いがある」を「不完全である」と言い換え、「充分に有用である」を「完全である」言い換えることによって、この関係のない二つの主張を結びつけて、「不完全であるが、実は完全である」という表現を生み出し、よって、あたかも「聖書には間違いがある」という問題がうまく解決されたかのような錯覚に陥られたわけです。都合の悪い事実が、あいまいな言葉のカーペットの下に、隠されてしまったのです。


4.なにが隠されてしまったのか

聖書に間違いがあるという事実から何が帰結するかというと、聖書に書かれているということだけを根拠に、その書かれている内容が真実であることはもう主張できない、ということです。もし、聖書が神の言葉でいかなる間違いも含まないなら、確かに、ただ聖書に書かれているというだけで、その書かれている内容が真実であることが主張できます。しかし、いまや、聖書に間違いがあることが明らかになったのですから、ただ聖書に書かれているというだけで、その書かれている内容が真実であることは主張できなくなったのです。

つまり、「神が存在する」、「神は宇宙の創造主である」、「神は全知全能である」、「イエスはキリストである」、「イエスの死は人類の罪の償いである」、「イエスを信じるものは救われる」等々の主張は、もう、聖書に書かれていることを理由に真実であるとは主張できなくなったのです。しかるに、これらのことが主張される唯一の根拠は、今でも、ただ聖書に書かれているということだけなのです。

この事実が隠されてしまったために、「永遠のいのちを得るためには、キリストご自身のところに行かなければならないと、キリストが言っておられます」とか、「神ご自身に出会い、その完全性を受け入れた時には、信仰によって、聖書はあなたの心の中で完全なものとなるでしょう」とか、もうそんなことは、聖書に書かれていることを根拠にその真実性を主張することができなくなったのに、そのことにまったく気がつかれていないのです。

もともと、真実を知るために、「不完全であるが、実は完全である」という結論に導かれたのではなく、すでに信じていることがらを、まだ信じ続けるための、ひとつの言い訳を思いつかれたに過ぎないからです。


5.「聖書は人を信者にさせるには充分に有用」? そりゃ、なんぼのもんや?

幸福の科学出版の『太陽の法』という書物は、その教祖大川隆法さんを「地球をおつくりになったかた」であると信じさせるのに「完全」なようですし、オウムの出版物も、その教祖麻原彰晃の「わたしはキリストである」という宣言を信じて、サリンをまくことができるほどに「完全」なようですし、統一教会の『原理講論』も、その教祖文鮮明を「再臨のキリスト」と信じさせるのに「完全」なようです。これらとまったく同じレベルにおいて、『聖書』もまた、人をキリスト教信者にさせるには「完全」である、ということにすぎません。