人々の考えでは、古い、又、重だったクリスチャンは皆、霊的に高い人々であると考えがちですが、これは間違っているように、思えます。見逃せない大切なことは、その心の中で、あの「からし種」が、神の聖霊によって(恵みに恵みをくわえられて,ヨハネ1の16)、本当に、成長しているのか、また、その存在が、確かに、「主の道」を歩んでいるのか、という事、その実りが,こぼれ落ちる程、実っている(果たして、クリスチャン同士、心の奥底から、お互いに、愛し合っている〈ヨハネ第1の4の19〉)のかと、いうと、どうも(余計なことかもしれませんが)無縁の様です。 多くの場合、イエスの土台の上に、実は己れ自身を築き上げているのではないのか、即ち、古い皮袋のままでは、ないのか(葉っぱばかりを繁らせているだけではないのか〈ルカ13の〉)、と思えてなりません。まるで、パリサイ人の様に、「この道」の前をふさいで、自分も入らないし、他人も入れない〈マタイ23の13〉、こんな風景があちこちに、あるのではないのか、と思うのです。 さて、自分自身を,振り返ってみて,(聖書,イエス伝を読むことに対しては)熱心であるが、日々の生活のなかではいつも、同じ過ちのなかにいる、ちっとも変わらないでいる自分を見出すのです。本当に、わたしは、クリスチャンと言えるのか、と。ずいぶん、自分に、がっかりします、しました。そこでまず、自分はユダヤ人が言うところの救いようのない異邦人である、と思えるので、この立場から、改めて,聖書を読んでみようと思い立ち、読み返してきました、います。実に、イスラエルという民族は、不思議な民族である、ということ。不妊の女、サラから生まれた、ということ。神に全てを任せ従った、アブラハムは、我が子であり、跡継ぎである、イサクを、本気で生贄にしようとした、つまりは、神によって生かされた人々の記録と言える。この様な民族が、他にあるだろうか、と驚きは、絶えない。不思議ななかで現れた、不思議な民族である、これが私の素直な感想です。ペトロが、「選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である〈ペトロ第1の2の9〉。」と述べ、パウロも、「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです〈ローマ9の4〉」、と、叫ぶとき、ヨハネの「救いはユダヤ人から来る(4の22)」と言う、「確かさ」が、響きます。 とは言うものの、異邦人である「わたし」は、どうすればいいのか、途方にくれます。ところが、実に幸いなことに、「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます(ローマ8の26)」、と。これは本当です。また、パウロは、「わたしたちの父なる神と、主、イエス・キリスト」によって、キリスト・イエス(の道)に従って、(新しく、すなわち、今日と言う日、に)生きる様、勧めています。ペトロも、「いっさいを捨てて、いま生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない(人の言葉でなく、天からの)霊の乳を、慕い求めなさい。それによっておい育ち、救いに入る(これが,本当の意味で,「福音」)ようになるためである。あなたがたは、すでに(言い尽くせないほど)、主が恵み深いかたであることを、味わい知ったはずである(ペトロ・1の2の2,3)」。「そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教えの初歩を、あとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、(イエスと一緒に)死んだ(はずの自分の)行いの悔い改めと神への信仰、洗いごとについての教えと按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教えをくりかえし学ぶことを、やめようではないか。神の許しを得て、そうすることにしよう。(ヘブル6の1〜3)」。――「御霊を消してはなりません」(テサロニケ・1の5の19)。「神の聖霊を悲しませてはいけません(エぺソ・4の30)」。―― それでは、キリスト・イエスの道(主の道)、「この道」(使徒19の23)に、どの様にして、入っていけばいいのでしょうか。聖書には、「招く」と言う言い方で書かれています。マタイは、「9の9から34」までの中に、その次第をくわしくかいています。ヨハネは、「1の35から39」までにまた、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ペテロ、ピリポ、ナタナエルたちは、がリラヤのカナで決定的に、「この道」に入っていく(カメの数は6つ)のです。しかしながら、特にシモン・ペテロはあるがままのペテロであって、洗者ヨハネの子(その心のうちで、主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声がはたらいている)ペテロは、はじめて、「この道」に、出会う(ヨハネ1の42)(ヨハネ18の15〜27)ことになります。ヨハネ伝で、唯一、マグダラのマリア(ヨハネ7の53〜8の11)だけが、この世に死んで神に生きていた(ヨハネ11の1〜44)と、書かれています。そして、イエスは彼らを愛しておられた(11の3)、のです。また、使徒行伝には、パウロが、どの様に招かれたかが,詳しく書かれています(使徒9の1〜8、そして、9、そうして、10〜19、大切な根は、13の3の日々)。また、ピリピの獄吏を,招いて、います(使徒16の23〜35、これは、使徒12の1〜10,19を踏んで、「この道」を味わってほしい。つまり、マタイが言う様に、自分のいのちを自分のものとした者は「それ」を失い、わたし〈イエス〉のために自分のいのちを失った者は、「それ」を自分のものとします(マタイ10:3))、と)。いずれにせよ、神(父)に招かれなければ,「この道」に入ることが,出来ません(ヨハネ6の65また、70)。しかしながら、「御霊を受けた者が、(悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、)(無心に)、求めれば、天の父は、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう(ルカ11の13)」、と、皆が、神に願い求めることを、勧めています。しかしそれは、「(イエス・キリストの復活によるのであって、)からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである(ペトロ第1の3の21)」、と、新しい皮袋で生きるよう、勧めます。すると、「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです(ローマ8の26,27)」。ところが、「求めても,与えられない(と、実感する)のは,(古い皮袋が望む)快楽のために使おうとして、(二枚舌の)悪い、求め方を、するからだ〈ヤコブ4の3〉」と,戒めています。同じ事は,ヨハネの、「9の1〜10の21(十字架につけられる過ぎ越しの前、時は冬。宮きよめの祭りのころの、日々であった)」に、どの様にして、「見えないものが見える」ようになるのか、また、なったかが、詳しく、書かれています。つまり、「見えると言い張るエゴ」が、読みながら、一緒に、裁かれて、いくのです。しかし、これこそが神のみこころに添うた「読み手」の悔いの悲しみであり、「神のみこころに添うた(この)悲しみは、悔いのない救を、得させる、悔い改めに導き、(この世の悲しみは、死〔に、至る絶望〕をきたらせる〈コリント2の7の10〉)」給うのです。うまく書けませんが、これと同じ「こと」が、使徒行伝に書かれています(26の18)。この「こと」こそが、パウロの大切な、もう一つの仕事でもあった訳です。クリスチャンは、こうして、「この道」に、はいっていくもののようです。
みつひこ拝
自分の言葉で自分の考えを述べることができるようになったとき、また、お越しください。そのとき、わたしたちは心を交わしあうことができるでしょう。