はじめまして。このホームページで自分の自己欺瞞を認識させられました。私は、神 が人間を創造されたことからして間違いだとずっとおもっています。勝手に作って、 意志を人間に与えても、必ず神の意志に添うようにあらゆるところに、伏線を引いて あります。

牧師は、信じさせてくださるようにと、祈ることを勧めますが、神の意志に添うよう に祈るのでは自由なんていえないと思います。 どのように考え、どのように行動しても、所詮は神の手のうちなのです。信仰ってそ ういうこと?

マリオネットとどこがちがうの? 思い込みだと分かれば、私の一人芝居だったと納得できます。 ローマ教皇だって、正式にサインする時には神の僕の僕と書くそうです。どうしっ たって自由なんてないように思いませんか?

佐倉様、教えてください。お願いします。

虐げられた者、弱き者、救いを必要とする者の神は、強い神であるほど理想的です。救い主として神はわたしを苦しめてきた敵(悪)の力から私を救う力を持っていなければならないからです。弱い神では、敵(悪)の神に負けてしまいます。したがって、強い神をイメージすればするほど、自分たちが救われる確信が高まります。そのために、古代イスラエル人たちがイメージした神は、近隣王国のいかなる王よりも強い、<最強の王>としての神でした。

しかし、私を救ってくれる人類の絶対的支配者としての最強の王たる神は、同時に、私を支配する神でもあります。私の救いの希望のために、無限に拡大してしまった神の力は、こんどは、この私の生を支配する、絶対的支配者にもなってしまうわけです。

私たちが、自らの無残な状態から解放してもらうために、解放者に多大の権力を預けるとき、解放者と私の間の関係は、支配者と奴隷の関係に必然的に陥るのです。助けてくださる有りがたい教祖様は、信者が従わなければならない支配者に必ず化けるのです。「うちの親分は強いんだ」と外で威張ることの出きるチンピラほど、その親分に何も言えない奴隷なのです。国民が政府に依存すればするほど、政府は権力を委託されることになり、政府は<助ける者>から<支配する者>に必ず化けるのです。これは永遠の真理です。

信者の自由の喪失は、救われるために自らの守護神を偉大にしすぎた信者本人の自業自得と言えるでしょう。