「主(神)はヨセフとともにいた。主は憐れみを彼にそそぎ、牢獄頭から特に目をかけられるようにした。牢獄頭は、獄屋と全囚人を、さらに彼らがそこで行ういっさいの作業をヨセフの手に委ねた。牢獄頭は、彼がいるので、何の干渉もしなかった。すべてがヨセフに委ねられたのは、主が彼とともにいたからである。主は、彼がするいっさいが、彼の手の中で首尾よくいくように図った。ところで、新改訳の聖書ではヨセフは王の囚人が監禁されている監獄にいれらたことになっています。このことの後、エジプトの王の酌人頭とパン焼き職人の頭が、主人であるエジプトの王に過ちを犯した。ファラオは、宦官である酌人頭とパン焼き職人の頭に対して怒りを爆発させ、二人を、ヨセフのつながれている牢獄、すなわち料理長の獄屋に監禁した」
ここの記述に少々矛盾がある。ヨセフがいれられたのは「王の囚人たちが監禁されている獄しゃ」のはずだが、ここでは「料理長の獄しゃ」になっている。ヨセフは王の囚人ではなく、不当な行為をしたとされるポテパルの奴隷である。奴隷は家畜に等しいから奴隷所有者はこれを恣意的に罰するための私的な獄をもつ。ヨセフは料理長ポテパルの獄に入れられはずで、そこへ王の囚人が入れられるはずがない。そこで「王の囚人たちが監禁されている獄しゃ」としたのであろうが、今度は王の二人の囚人を「料理長の獄屋」にいれたことになっている。こういう記述の混乱は、創作への後代の加筆によってしばしば現れる。
(禁忌の聖書学 山本七平著 143ー144ページ 新潮文庫)
創39:20酌人頭とパン焼き職人の頭が牢獄に入れられる時は、侍従長の家の監獄に入ります。
ヨセフの主人は彼を捕え、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄にいた。
創40:3となっており、王の囚人が監禁されている監獄が、侍従長の家の監獄となっており、同じ監獄である と考えることもできるので、調和化されています。 山本七平氏はこの上記の文章を「新潮」1987年に発表しています。この時には、矛盾であったのでしょうが、みごとに新改訳聖書では調和化されて気がつきません。が、山本七平氏が彼の文章を書いている時には、「王の囚人たちが監禁されている獄しゃ」と「料理長(ポテパル)の獄しゃ」別であり、記述の混乱であったもいのとおもわれます。
彼らを侍従長の家に拘留した。すなわちヨセフが監禁されている同じ監獄に入れた。
この来訪者の声で英語版 聖書の間違い のサイトを紹介してくださったかたがいまっすが、私がそのサイトを訪れてみると約100もの矛盾、間違いがある と書いてありました。今佐倉さんは41箇所あげておられますが、約半分ですね。もっとも佐倉さんは積極的にもう目的は達せられてしまった ということで間違い探しはなさらない とのことですね。私もそろそろ退出する時と思いますのでこのへんでしました。終わりにします。
では、お体を大切に。失礼します。
わたしは山本七平氏の著作を知りませんので、はっきりしたことはいえませんが、この場合、矛盾であるとは断定できないと思われます。
王の囚人がつながれている獄(関根正雄訳)と
王の囚人をつなぐ監獄(新共同訳)
侍従長のところ・・すなわちヨセフがつながれてた獄(関根正雄訳)が、必ずしも別のものでなければならないとは言えないからです。侍従長のところに「王の囚人をつなぐ監獄」があった可能性も考えられます。
侍従長の家にある牢獄、つまりヨセフがつながれている監獄(新共同訳)