平田さんが、汚れた霊に取り付かれた男の数の違いについて書かれ、 高尾教授はマタイが書き直しと言っていますが佐倉さんの論法では間違いに、 矛盾になるのではないか、と書かれていたのに対し、 佐倉さんが、これはあきらかに聖書の矛盾です。 と、答えられていたので、そんな事で良いのなら、わたしも、 と思い投書いたします。
マルコ福音書4章1〜9節まで、(マタイは、13章1〜9節、 ルカは、8章4〜8節までが並行記事です) この譬話の中で、道端に落ちる種、石地に落ちる種、茨の中に 落ちる種、良い土地に落ちる種の4種類が出てくるのですが、 マルコでは、最初の3種類は単数、最後の良い地に落ちる種だけが、 複数で書かれています。ちなみに、マタイではすべて複数、 ルカではすべて単数に統一されています。
数が違うという意味では、明快な矛盾でしょう。 もっとも、これは出来事ではなく、話だから矛盾ではない、 とおっしゃるかもしれないですが、イエスの教えというのは、 こういう話によっているので、奇跡を受けた人数というのと同じレベルで、 イエスが語った種の数の違いというのも矛盾だと思います。
ただ、わたし個人としては、こういうものは、汚れた霊を持った 男の数にしても同様ですが、それぞれ、編集者である、マルコ、 マタイ、ルカの思想が出たところだと思います。 それにしても、聖書が書いていることをそのまま信頼してはいけない、 あるいは、聖書が書いていること、イコール、イエスの言葉ではない、 というための例証としては、意味があるのではないでしょうか。
それにしても、聖書が書いていることをそのまま信頼してはいけない、 あるいは、聖書が書いていること、イコール、イエスの言葉ではない、 というための例証としては、意味があるのではないでしょうか。まさに、そのこと、つまり「聖書が書いていることをそのまま信頼してはいけない」ということこそが、『聖書の間違い』から導きだされる結論です。