佐倉哲エッセイ集

キリスト教に関する

来訪者の声

以前にもいろいろな人がおっしゃている通り、聖書は何千年もの歴史の中で手を加え られてきました。もちろんローマ帝国時代のように聖書が国の利益のために改ざんされたこともあります。そして、人間の手によって書かれている以上、矛盾があるかもしれません。しかし、だからといってそれが神の存在やキリスト教の意義を否定する証拠にはなりません。たとえばキリストの復活に関しての記述が四福音書の間で大分食い違っているという批判がありましたが、だからといってキリストが復活しなかったのでしょうか?いえ、彼は復活されて、今も元気に生きています。その証拠に世界で多くのことが成し遂げられ、神の国の完成に向けて一歩一歩近づいているではありませんか。

以前に「聖書のよい部分だけを抜き出して賛美している本が多すぎる」とおっしゃいました。確かにそうかもしれませんし、私自身、聖書の部分を抜き出して全体を要約したつもりでいる人間たちがかわいそうでなりません。それと同じように「神が今までに成し遂げられなかったこと」を言及するのは簡単です。いまだに核兵器も存在していますし、戦争も世界各地で起こっています。しかし「神が我々人類を通して成し遂げたこと」に目を向けることも必要かと思います。

佐倉さんの聖書に対しての情熱は、いかなる形であれ、素晴らしいと思います。矛盾に目を向けることも大切ですが、聖書に書いてある正しいことを検証する姿勢も必要ではないでしょうか。また、そうすることによって、佐倉さんの考えもより整然としたものとなるのではないでしょうか。

祈りの中で。

Nobby


Nobbyさんへ
2001年3月4日

聖書が間違っているという事実から導かれるもの

1.聖書が間違っているという事実から導かれるもの
[聖書が]人間の手によって書かれている以上、矛盾があるかもしれません。しかし、だからといってそれが神の存在やキリスト教の意義を否定する証拠にはなりません。たとえばキリストの復活に関しての記述が四福音書の間で大分食い違っているという批判がありましたが、だからといってキリストが復活しなかったのでしょうか?
もちろん、聖書が間違っているという事実から、神の存在が否定されることにも、キリスト教の意義の全てが否定されることにはなりません。聖書が間違っているという事実から導かれるものは、
(1)聖書は神によって書かれたものではないということ、すなわち、

(2)聖書に書いてあるということを根拠に、そこに書かれていることが真実であることは主張できない

ということです。たとえば、「聖書に書いてあるから、キリストが復活したということは、真実である」などとは、もう、言えないのです。同様に、神が世界を創造したとか、世界を創造した神が存在しているとか、ナザレのイエスは人類の救い主(キリスト)である、等々、これらのことを「聖書に書いてあるから」という理由で真理であるとは、もう言えないのです。


2.キリストは「今も元気に生きています」?

彼[キリスト]は復活されて、今も元気に生きています。その証拠に世界で多くのことが成し遂げられ、神の国の完成に向けて一歩一歩近づいているではありませんか。
世界が「神の国の完成に向けて一歩一歩近づいている」などということが事実であるかどうかは、まったく明晰判明な事ではなく、百歩譲って、たとえそれが事実であると仮定したとしても、そこから、キリストが「今も元気に生きています」という結論は論理的に帰結しません。


3.神の功績に目を向ける?

しかし「神が我々人類を通して成し遂げたこと」に目を向けることも必要かと思います。
神を知らない人間に、「神が我々人類を通して成し遂げたこと」に目を向けることは、不可能です。神について無知ならば、なにが神の功績なのかについても、必然的に、無知だからです。


4.わたしたちに必要なもの

わたしたちに必要なのは、神についてなにも知らないのに、神について、ああだ、こうだ、と喋る傲り、それを止める謙虚さではないでしょうか。そして、「神に存在して欲しい」、とか、「神にはこのようにしてもらいたい」、とか、「イエスが復活したというのは事実であって欲しい」、とか「そういう欲望を自分は持っている」、という風にもっと正直に語り始めることではないでしょうか。

クリスチャンとそうでない者との違いは、クリスチャンが神やキリストについて何かを知っていて、そうでない者はそれらについてなにもしらない、という所にあるのではなく、クリスチャンも、そうでない者と同じように、神やキリストについてはなにも知らないくせに、まるで何かを知っているかのごとく思い込んでしまっているだけなのですから。


おたより、ありがとうございました。

佐倉 哲