前回、ノアの洪水は盗作だとあなたが言ったことに、 反論を送ったのに、どうして、私の文はHPに載せてくれないのですか。
しかたがないので、最新のあなたの文を捜したら、「汚れた霊に取り付かれた男の数の矛盾」とありましたので、読ませて頂きました。ご投稿された方も、また、あなたも、本気でこの個所を聖書の矛盾と解釈し、しかも、佐倉さんは、その投稿意見を「これはあきらかに聖書の矛盾です」とまで言ってのけたわけですから、いやいや、解釈知らずとはこのことですね。聖書の研究者なら、「かもしれない」くらいにしておけばよいものを、断言するなんて、なにを根拠に断言するんでしょうか。
マタイは自分の見たこと、聞いたことを書きました。マルコとルカは、イエスの十二弟子ではないので、直接見ていないため、聞いたことと調べたことを書きました。
それぞれ、もっとも書きたかったことをしっかり書くため、重要でない部分はおおざっぱに書いています。なぜなら、書き送る相手が、ユダヤ人であったり、ローマの高官であったりしているから、重要でない部分を詳しく述べると、反って読者に、何を書こうとしているのかが伝わらないからでしょう。
福音書を良く読むと、それぞれ特徴があり、たとえば、マルコ伝はイエス様の行動を重視しているため、その他のことはそれほど多くは載っていない。あるいは、載っていても、大雑把である。従って、汚れた霊に憑かれた人の人数は、彼には問題ではなく、イエスがどうされたかを書きたかったに過ぎない。
たとえば、「この家はAさんが建てた。」というとき、正確には、AさんもAさんの奥さんもいただろうし、もっと正確には、親類も含まれているかもしれないが、そこまで詳しくする必要がないときは、Aさんだけで十分ではないか。
墓場から悪霊に憑かれた人が出てきたとき、2人出てきたとしても、片方が印象に強ければ、わざわざ詳しく2人とするまでもない場合だってある。もしも、858人とすべきところを、859人、としていたら、なにか間違いがあるんじゃないのかと疑ってもやむをえないが、複数を単数としただけでは、それは省略したと言えるではないか。だから、こういうのを矛盾と呼ぶのは変だ。形式が矛盾であっても、内容的には矛盾ではない。
聖書を疑うとは、あなたは神を恐れないのか。でもまだ疑うくらいなら、人間だからと同情もできるが、神のことば、聖書を、矛盾だと断言し、公言するなどと、たいそれたことをするとは、なんとひどい人なんでしょう。
と私が怒っても別にどうということはございません。ただ、神の言葉を、すこしご紹介します。
(注:下記の「あなた」とは、神様のことです。」
「あなたは、恵み深い者には、恵み深く、 全き者には、全くあられ、 きよい者には、きよく、 曲がった者には、ねじ曲げる方。」佐倉さんも、苦労を重ね、辛い道を通って来られたのかもしれません。でも、悲しいかな、あなたは、それに堪えられなかった。そして、サタンに心を与えてしまったのでしょう。(詩篇18:25,26)
主の祝福を偽り呼ばわりし、神の救いのことばを矛盾呼ばわりし、公言し、しかも、指摘に対し、ついに正当な対応をせず、反論をHPに載せず、メールもくれなかったのです。コンピューターの不具合により、正当な対応が出来なかったならべつですが、そうでないなら、残念です。涙ながらにもうしますが、主の祝福はあなたから去ってしまいました。もしも立ち直りたければ、少々のアドバイスを致しますので、メールを下さい。(間に合えば)
柴田
1.汚れた霊に取り付かれた男の数の矛盾
[各福音書は]それぞれ、もっとも書きたかったことをしっかり書くため、重要でない部分はおおざっぱに書いています。なぜなら、書き送る相手が、ユダヤ人であったり、ローマの高官であったりしているから、重要でない部分を詳しく述べると、反って読者に、何を書こうとしているのかが伝わらないからでしょう。ではもう一度、この部分をじっくり読みかえしてみましょう。・・・福音書を良く読むと、それぞれ特徴があり、たとえば、マルコ伝はイエス様の行動を重視しているため、その他のことはそれほど多くは載っていない。あるいは、載っていても、大雑把である。従って、汚れた霊に憑かれた人の人数は、彼には問題ではなく、イエスがどうされたかを書きたかったに過ぎない。たとえば、「この家はAさんが建てた。」というとき、正確には、AさんもAさんの奥さんもいただろうし、もっと正確には、親類も含まれているかもしれないが、そこまで詳しくする必要がないときは、Aさんだけで十分ではないか。
まず最初は、汚れた霊に取り付かれた男は二人であったと記述するマタイの福音書です。
【マタイ8章28〜9章1】次に、汚れた霊に取り付かれた男は一人であったとするマルコの福音書の記述です。はたして本当に、マタイ(前者)と違って、「詳しく述べると、反って読者に、何を書こうとしているのかが伝わらない」ので、マルコ(後者)は「大雑把」に書いたのでしょうか。上述のマタイと比べてみましょう。それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊に憑かれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。すると見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめるために来られたのですか。」
ところで、そこからずっと離れたところに、たくさんの豚の群れが飼ってあった。それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」
イエスは彼ら「行け。」と言われた。すると、彼らは出て行って豚に入った。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。
飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方から立ち去ってくださいと願った。イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
【マルコ5章2〜21】あきらかにマルコは、「大雑把」に書いたどころか、マタイよりはるかに詳しく、汚れた霊につかれた人について記述しています。「マルコ伝はイエス様の行動を重視しているため、その他のことはそれほど多くは載っていない」という言い訳は通じないようです。イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖をひきちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。
それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。
彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、大声で叫んでいった。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」それはイエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。と言われたからである。」
それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから。」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。
ところで、その山腹に、豚の大群が飼ってあった。彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。
豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村でこのことを告げ知らせた。人々は何が起こったのかと見にやって来た。そして、イエスのところに来て、悪霊につかれた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。
見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるように願った。それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。
しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんな大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。
イエスはまた向こう岸へ渡られると、大勢の人の群れがみもとに集まった。
それに、「もっとも書きたかったことをしっかり書くため」に、「悪霊に憑かれた人がふたり」と言うかわりに「汚れた霊につかれた人」、「彼ら」と言うかわりに「彼」、「悪霊につかれた人たち」と言うかわりに「悪霊につかれた人」と書いたのだなどというのは、まったく強引な言い訳であって、ナンセンスです。
マルコより、はるかに大雑把に書いたマタイは、自分が参照にしたマルコで、取りついた霊が自分のことを「大勢」を意味する「レギオン」と呼んでいるので、早とちりして、霊に取りつかれた人を複数にしてしまったというのが、もっともありそうなシナリオのようです。
2.もしも、858人とすべきところを、859人、としていたら・・・
もしも、858人とすべきところを、859人、としていたら、なにか間違いがあるんじゃないのかと疑ってもやむをえない・・・。そんな例ならば、無数にあります。
厩舎四万(列王記上 4:26) | 厩舎四千(歴代誌下 9:25) |
三千三百人(列王記上 5:16) | 三千六百人(歴代誌下 2:17) |
二千バト(列王記上 7:26) | 三千バト(歴代誌下 4:5) |
五百五十名(列王記上 9:23) | 二百五十名(歴代誌下 8:10) |
二十二歳(列王記下 8:26) | 四十二歳(歴代誌下 22:2) |
十八歳(列王記下 24:8) | 八歳(歴代誌下 36:9) |
騎兵千七百(サムエル記下 8:3-4) | 騎兵七千(歴代誌上 18:3-4) |
八十万、五十万(サムエル記下 24:9) | 百十万、四十七万(歴代誌上 21:5) |
戦車兵七百(サムエル記下 10:17b-18) | 戦車兵七千(歴代誌上 19:17b-18) |
775人(エズラ書 2:5) | 652人(ネヘミヤ記 7:10) |
945人(エズラ書 2:8) | 845人(ネヘミヤ記 7:13) |
642人(エズラ書 2:10) | 648人(ネヘミヤ記 7:15) |
623人(エズラ書 2:11) | 628人(ネヘミヤ記 7:16) |
1222人(エズラ書 2:12) | 2322人(ネヘミヤ記 7:17) |
666人(エズラ書 2:13) | 667人(ネヘミヤ記 7:18) |
2056人(エズラ書 2:14) | 2067人(ネヘミヤ記 7:19) |
454人(エズラ書 2:15) | 655人(ネヘミヤ記 7:20) |
323人(エズラ書 2:17) | 324人(ネヘミヤ記 7:23) |
223人(エズラ書 2:19) | 328人(ネヘミヤ記 7:22) |
123+56=179人(エズラ書 2:21-22) | 188人(ネヘミヤ記 7:26) |
652人(エズラ書 2:60) | 642人(ネヘミヤ記 7:62) |
等々・・・ | 等々・・・ |
このように聖書の矛盾は無数にあります。したがって、聖書は間違いだらけです。もし、神が全知全能で、間違ったことを語らないとしたら、聖書は神のことばではありえません。神は間違うことができないはずだからです。
そもそも、「聖書は神のことばである」としゃべっているのは、みんな、あなたのような、単なる人間にすぎないのです。つまり、「聖書は神のことばである」というのは人間の言葉です。その人間の言葉が間違っているという、しごく当たり前のことをわたしは語っているだけです。人間はだれでもしばしば間違うものだからです。