佐倉 哲 様 こんばんは。

聖書伝承の不完全性 (2)
--- なぜマルコ伝の最終章が信頼できないか ---
に関連して

 マルコ福音書の末尾については、長谷川順旨さん同様、私も8節で終わっていたという立場をとるものです。その点については、長谷川さんの文章に付け加える必要をあまり感じないので、作者より長谷川順旨さんへの文章の中にあるいくつかの点について、私なりの見解を述べさせていただきたいと思います。

それでは、ガリラヤ行きへの言及の解釈が、少しまだ、不自然な気がしないでもありませんが・・・

「なぜエルサレムに行くのか? なぜ復活したキリストを知ろうとするのか?むしろガリラヤへ行け。そこで、人々の生活の中に今なお息づくイエスの姿を見いだすだろう。」・・・マルコはこう言いたいのではないでしょうか。
長谷川さんのこの部分は、本人もお書きの通り田川健三さんの著作の受け売り部分です。受け売りか否かは別として、ここに「ガリラヤ行き」に関する田川流解釈の真骨頂があります。『原始キリスト教史の一段面』では、エルサレム教会以来の初代教会主流の伝統に反抗して、エルサレムではなくガリラヤ、を強調したところに福音書記者マルコの最大特徴を見ています。福音書の編集史的研究としては、世界的な著作ですので、まだお読みになっていないのでしたら、一読されてはいかがでしょう。このマルコの立場からすれば、女達の話が弟子たちに伝わらなかった、という末尾も、イエスに会いたいのなら、ガリラヤに行きなさい、という言及も、共に現在のエルサレム教会批判、ガリラヤ=生けるイエスの活動の強調、という意味で首尾一貫しているのです。不自然な気がされるのは、まだ、マタイ、ルカの視点から、マルコを見ておられるからで[・・・この部分文字化けで解読不可・・・


マタイは、ガリラヤ行きのメッセージをそのまま受け継ぎ、弟子たちをガリラヤに行かせそこで復活したイエスに出会うという話にしていますので
 この後で、佐倉さんも考察されているように、「マタイにおけるイエス顕現の記録はあまりにも単純で、具体性に乏し」いものです。私個人としては、マタイ福音書の研究から、この部分は、その背景となる顕現伝承を持たず、むしろマタイの編集に帰せられる箇所だと考えています。(詳しい議論は長くなるのでここでは避けます、興味がおありでしたら、じっくりお話しましょう)したがって、佐倉さんの「マタイがマルコを参照にしたとき、すでに、9節以下は存在しなかった」というご発言が私の結論になります。マタイはこの結論に違和感を憶えたのでしょう。そこで、ガリラヤでの顕現を創作します。ルカではエルサレム周辺の顕現物語しかない事、ヨハネでは20章でエルサレム周辺の顕現物語を記述した後、21章で、ガリラヤでの顕現物語を付け加えている事、などから見ても、「ガリラヤ」という動機は、むしろ当時流布していたエルサレム顕現物語に反抗して、マルコが付け加え[た]一言だったと考えてよいでしょう。田川氏の著作には、この部分をマルコの編集と考える根拠が示されています。盲従するわけではないですが、そう考える方がすべてのつじつまが合います。[・・・この部分文字化けで解読不可・・・


マタイは、イエスの顕現を信じなかった弟子(たち)がいたことを書き残していますから
 この点についても、実は翻訳上の問題があります。ギリシャ語を素直に訳せば、マタイ28章16節は、「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、彼らは疑いもした」です。この彼らを、弟子たち全員とすると、どうも護教論的に具合が悪いと考えた、ラテン教父たちが、いろいろと理屈をつけて、「何人か」と訳した、これが「疑う者もいた」と訳される事になった原因です。現在の聖書翻訳でも、「何人か」と訳される事が多いのですが、私は、聖書学的には、素直に訳していけない根拠はまったくない、と結論が出ていると思っています。なお、ここで使われている、「疑う」という動詞が、実は新約聖書で2ヶ所、しかもマタイの中でしか使われていない動詞で、その意味を「疑う」に限定するには無理があります。この辺りを掘り下げていくと、福音書記者マタイの思想が浮き彫りになってくる筈なのですが、長くなるので、ここまでにします。この点についても、もし幸いに関心を持ってくださったら、私なりの研究がありますので、更に詳しくお話できると思います。

 以上、聖書の伝承に不完全性があるという、佐倉さんの本論の趣旨とは随分ずれてしまいましたが、復活伝承にはこのような側面があるということで、長々と書いてしまいました。

女達の話が弟子たちに伝わらなかった、という末尾も、イエスに会いたいのなら、ガリラヤに行きなさい、という言及も、共に現在のエルサレム教会批判、ガリラヤ=生けるイエスの活動の強調、という意味で首尾一貫しているのです。不自然な気がされるのは、まだ、マタイ、ルカの視点から、マルコを見ておられるからで・・・

「不自然」な気がするというのは、マルコ16章7節の「あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われてたとおり、そこでお目にかかれる」を、「なぜエルサレムに行くのか? なぜ復活したキリストを知ろうとするのか?むしろガリラヤへ行け。そこで、人々の生活の中に今なお息づくイエスの姿を見いだすだろう」と解釈するのは、少々強引な気がするからです。

・・・この点についても、実は翻訳上の問題があります。ギリシャ語を素直に訳せば、マタイ28章16節は、「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、彼らは疑いもした」です。この彼らを、弟子たち全員とすると、どうも護教論的に具合が悪いと考えた、ラテン教父たちが、いろいろと理屈をつけて、「何人か」と訳した、これが「疑う者もいた」と訳される事になった原因です。現在の聖書翻訳でも、「何人か」と訳される事が多い・・・
こういう発見がまさに
聖書が最初に書かれたとき神の聖霊が働いたかどうか知る由もないが、聖書が現代人の手に渡るまでの伝承過程では神の聖霊が働いたとはとうてい考えられない
と考えるわたしの「聖書の伝承に不完全性があるという・・・本論の趣旨」にそのまま沿うものです。