佐倉さん、こんにちわ、今年もよろしくお願いします。聖書の間違いも随分書く込みが多くなり、最初の頃の文章等忘れてしまっています。いちいちプリント アウトしているのでファイルの数も20冊にもなってしまいました。佐倉さんの地道な努力の賜物と思います。
さて、この前はトマス・ペインの聖書観を書いたので、今度はカール・セーガンの聖書観を書きたいと思います。「言葉」の所に入れていただけたら望外の喜びです。では、書きます。
聖書は神の霊感によって書かれ、一つの言葉にも多くの意味があるとされている。だがもしも、聖書が誤りやすい人間によって書かれたものにすぎなっかたら?奇跡がおこったと書かれているが、それは実はホラ話だったり、普段はあまり経験しない無意識の状態や、自然現象の勘違いや、心の病いが原因だったとしたら?古来の宗教やニューエイジ思想のなかに、科学が解き明かしてきた宇宙の壮大さ、精妙さ、複雑さをきちんと受け止めているものが一つだってあるだろうか。近代科学の発見のうち、あらかじめ聖書に書かれてあったことはほとんどないではないか。その点からみても、聖書が神の霊感で書かれたとは、私には思えないのである。以上取りあげていただければ幸いです。 では、失礼します。 JAN.2,2001 平田 修(カール・セーガン、『人はなぜエセ科学に騙されるのか 上巻』、80ページ、新潮文庫)
近代科学の発見のうち、あらかじめ聖書に書かれてあったことはほとんどないではないか。その点からみても、聖書が神の霊感で書かれたとは、私には思えないのである。逆に、聖書が神の霊感で書かれたと考えざるを得ないような根拠は一つもありません。したがって、聖書が神の霊感で書かれたと主張することは、実は、「そうあって欲しいという欲望を持っています」という告白以外の何ものでもないと言えるでしょう。
(お断り:「言の葉」は、いちおう、わたしのかなりパーソナルな選択なので、こちらに掲載させていただきました。)