はじめまして、作倉様。

佐倉哲エッセイ集の「聖書の間違い」大変興味深く拝見しました。 僕は、プロテスタントクリスチャンですが、 佐倉様はクリスチャンなのでしょうか? どのような視点で、聖書をそこまで読まれているのか大変興味を感じます。

クリスチャンの中には確かに聖書は誤りなき神の言葉 一字一句間違いはない!といわれる方が大勢います。 しかし、僕は誤りや、矛盾があると思いますし、あって当然だと思っていま す。 書き換えられもしたでしょうし、人間側の問題に挟まれて、いろんな問題を持 つ書です。 私たちと同じ罪ある人間が書いたのですから、 矛盾は当然ですし、それこそ矛盾のない書物だったら ここまで聖書は生きてこなかったのではないでしょうか? しかし、矛盾がある中で聖書は2000年の歴史をもって 今なお読まれ続けている。そこが大事だと思います。

作倉さんはこのHPで何を言いたいのでしょうか? 聖書は神の言葉で間違いはないと言っている人がいるが、 それは間違いで矛盾多き書物だと、そのことだけ言っているのでしょうか? それでしたら、間違っていません。その通りです。 でも、そこから始める一歩が我らクリスチャンには大切なことだと思うので す・・・

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以下の箇所も一つの聖書の矛盾だと言えると思います。

「種をまく人」
マタイ 悪い者 13.18
マルコ サタン  4.15
ルカ  悪魔   8.12

これらも同じような意味ではあっても、違う言葉です。
現にこれら3種類に訳されているということは言語が
違うということになると思います。

「ナザレで受け入れられない」
マタイ 大工の息子 13.55
マルコ 大工     6. 3
ルカ  ヨセフの子  4.22

これはあきらかに、違う言葉でイエスをたとえています。


「服にふれる女」
マタイ 死にました   9.18
マルコ 死にそう    5.23
ルカ  死にかけていた 5.26

これも意味が違う言葉です。


「中風の人をいやす」
マタイ 恐ろしくなり 9. 8
マルコ 皆驚き    2.12
ルカ  恐れて    5.26

恐ろしいという事は分かるが、それぞれ微妙に意味が違う。


「安息日に麦の穂をつむ」
マタイ 麦の穂をつんで食べ始めた 12. 1
マルコ 積み始めた         2.23
ルカ  摘み、手でもんで食べた   6. 1

摘んだだけなのか、摘んで食べ始めたのか、食べたのかわからない。

そもそも、原語から日本語に訳しているそのことだけで、伝わるべきものが伝 わっていないことは間違いありません。 まして、イエスから何人かをへて著者へ、そして時代に流れて、日本語へ。 イエスから著者だとしてもイエスの本当に言いたかったことを間違えることな く解釈できて、文章にできたとはいえないでしょう。

しかし、それでも伝えたかったイエスの生き様を我らは考えていくことです。 それでいいのではないでしょうか? そのために、聖書はここに在るのではないかと僕は考えています。

何も学びもせず、勝手なことを言ってすいません。

えいたろう

【なぜわたしは聖書に興味を持っているか】

佐倉様はクリスチャンなのでしょうか?
わたしは、長い間クリスチャンでしたが、現在はクリスチャンではありません。わたしが聖書に興味を持っているのはわたしがクリスチャンだったからです。


【わたしは『聖書の間違い』で、何を言いたいのか】

作倉さんはこのHPで何を言いたいのでしょうか? 聖書は神の言葉で間違いはないと言っている人がいるが、 それは間違いで矛盾多き書物だと、そのことだけ言っているのでしょうか? それでしたら、間違っていません。その通りです。
その通りです。「はじめに」をお読みください。