こんにちは。はじめまして。 私は東京在住のクリスチャンですが, 今は教会には行っていません。 ホームページの文章を読ませていただいて とても考えさせられたので, よろしければ感想を聞いてください。私は,以前から旧約聖書の「殺せ!殺せ!」のオンパレードには ゲンナリしていました。 一体,自分と違う宗教,違う文化の人だからといって みんなぶっ殺していいのでしょうか? 聖書が否定するおまじないや自然宗教の中にも いっぱい人類の遺産と言うべき豊かなものがあると思います。
(例えば自然との共存とか。アイヌの人は山へ何かを取りに行く時は 必ず山の神様に「これから○○を取りに行くけれども, どうぞあなたの持ち物を分けてください。」と言ってから 山に入っていったそうです。これはアイヌの人本人から聞きました。)
人間が「私は正しい。」と主張することは,ともすると 「あんたは間違っているんだ。」と言うのと同じことになりかねないと思います。 人間の正しさなんて人を傷つけるだけだとも思います。 人間は自分が正しいと思ったら,それだけが正義でそれ以外は大間違いだと 思いがちなのではないでしょうか。
人の心は自由です。何をどのようにとらえ,それをどのように考えようと, それはその人の自由。聖書の解釈もそうだと思います。 聖書が完全無欠の神の言葉だと思って,それがその人の心の支えになり, 救いになるのならば,別にそれはそれでいいと私は思います。 もしかしたらその人は自殺を考えるほど悩んでいたのを, それで救われたのかもしれないし, そういうことについては他人があれこれと言うすじあいのものでは ないのでしょうね。自分の心の中のことですし。 ただ自分が救われたからといって,他人に押し付けてくるのは かんべんして欲しいですけれど・・・・・・
聖書が書かれた背景には厳しい自然と,破壊と殺戮の歴史が あると思います。その中で育った人間が どのように「神」をとらえたのか,ということを聖書は語っているのだと 思うんですが,いかがでしょうか? 旧約聖書の「殺せ!殺せ!」はもしかしたら イスラエルの民の心からの願いだったのかもしれません。 先住民を駆逐して豊かな土地を自分達だけのものにしようという。 イエスの奇跡物語には,その頃の人が何を渇望したのかが えかがれているように思います。
私は聖書に書かれている奇跡については 実は全然信じていません。 それでもなぜいまだに神を心のどこかで信じているかというと, 神に望まれたから自分は誕生したのだと思わないと 生きている理由が無いからです。 私は生みの母にひどい虐待を受け, 「お前のせいで私の人生台無しだ!死ね!!」と毎日のように 暴力を振るわれ,3回ほど本気で殺されそうになりました。 私は親に望まれて産まれた子供ではありません。 そして,親は私にこの世から消えて欲しいと本気で思っています。 私は本能的には死を恐れ,生きていくことを望むのだけど, 自分をこの世に生み出した人間に拒絶されて 「自分なんて要らない人間なんだ。」と思いながら生きて行くことは 毎日毎日生き地獄でした。 神が自分を生み出し,神が自分に何かを分かって欲しくて この苦しみを与えたのだ。 そうでも思わないと,生きている理由なんてどこにもありません。 これは逃避かもしれない。私が弱虫だからそうしないと 生きていけないのかもしれない。 でも,他の人になんと言われてもいいのです。 このような母の子供として産まれた私の人生を, 代わって生きてくれる人なんて誰もいない。 母の憎悪を私の代わりに引き受けてくれる人なんて誰もいない。 これは,私が一生ひとりで背負っていかなくてはならないものなのです。 世の中には神の存在を必要とする人がいます。 ただ,何でもかんでも盲目的に信じて突っ走るのはどうかと思います。
「おさなごのように」信じることは私にはできない。 でも,おさなごのように信じている人は私の目からは 幸せそうに見えますよ。神は本当にいて,自分のことを心から愛してくれる, そういう深い信頼を神に寄せることが出来る人は 自分が愛される価値のある存在なんだと,自分の存在を肯定することができる。 もしかしたら「おさなごのように」の一節も本当はそういう意味だったのかも しれないと思うのです。ただのちの時代の人にいいように利用されて 信者をあやつるために使われたことも多かっただろうと思います。 私は聖書にあることが全部正しいとは思いません。 ただ,聖書を書いた人々が神をどうとらえていたかを読み取りたいと 思っています。 「宗教は阿片である」という有名な言葉がありますが, 阿片で痛みを和らげないと生きていけない状態の人もいます。 でも,私自身は阿片中毒にならないように気を付けたいと思います。
「神が人を殺せといわれたら,あなたは殺せるか?」 と問われたら,私はNOと言います。 旧約聖書の時代は同胞以外の人を殺してもOKだったのでしょうけれど, 今の時代は違うからです。 昔の日本人が親の敵を殺しても良かったけれど, 今は犯罪なのと一緒だと思います。 もしも信仰というのが,それこそ絶対服従を意味するのなら, 神に言い返す私は不届きものなのでしょうね。 でも,人間は神のロボットではない。 多くの矛盾をはらみながら,私は生きて行くでしょう。 死ぬまでに少しでも答が見つかればそれでいいと思います。 自分で自分の存在を肯定するにはどうすれば良いかということを。 そしてどうしたら同じように他人の存在も肯定できるかということを。
ながながと書いてしまって申し訳ありません。 私は聖書を学問的に研究した訳ではないので, 「どう思うか,どう感じるか,どう考えるか」ということしか 言うことが出来ません。あまり面白くなかったかもしれませんね。 破壊と殺戮,流血と涙のなかで,なぜ,そしてどのように 人々は神を信じてきたのか, 私は一応クリスチャンですが聖書の文字どおりの言葉よりも 聖書に隠された,人々の過酷な人生との闘いの方に興味があるのです。 読んでくださって本当にありがとうございました。