はじめまして。 ジョウヴ西内といいます。 最近、宗教関係の人たちと接触する機会が多いのですが、先日ある人が

「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。 ・・・・ 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいること はできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉い のである。」(聖書:マタイ 8:1-4)

とあるのを

「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。   ・・・・ 「よく聞きなさい。分別心を捨てて、幼な子のように無垢にならなければ安心境地に 住すことはできないであろう。 この幼な子のような中庸を全うした者が、人間界に おける勝者である」 (聖書:マタイ 8:1-4)

という意味だ、と言っていたのですが、佐倉さんはどう思われますか? (1)分別心

分別心を捨てて、幼な子のように無垢にならなければ・・・
こういうのは、京都学派(西田幾多郎や鈴木大拙の思想系統)の禅思想的解釈です。分別心を捨てることによって悟りを得ることができるという、仏教を誤解した臨済系の思想です。仏教というより、むしろ、中国の道教に大きな影響を受けた思想と言えますが、日本では、「西欧的に対する東洋的」ということで、ポピュラーです。

しかし、仏教は、原始仏典を読めば明らかなように、徹底的に分析的宗教です。それは、縁起思想が仏教の根本思想であることを思えば、当たり前のことです。すべては様々な相互関係から成立しているという縁起の思想から、人間の悲苦にもそれを成立させているさまざまな原因や条件があるのだから、それらの原因や条件をなくすることによって、人間の悲苦を克服できる、という考えが生まれます。したがって、仏教の実践は、人間の悲苦を成立させているさまざまな原因や条件を分析するところから始まります。その無知を克服する努力なくして(分別心を捨てて)は人間の悲苦は克服できない、というのが本来の仏教の教えだと思います。


(2)幼な子

引用されているマタイの章句は、8章ではなく18章です。マタイはマルコ(マタイの手本)にかなり手を加えています。マルコではこのようになっています。

[弟子たちが、誰が一番偉いかを論じていたので、]イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、皆のしんがりとなり、皆に仕える者となりなさい。」

(マルコ 9:33〜35、新改訳)

ここには「幼子のようになれ」というメッセージはありません。マルコでは、「(子どものように)皆に仕える者となりなさい」という教訓としてではなく、別の物語の中で、次のように「子どものように神の国を受け入れる者となれ」という教訓として語られているのです。
[イエスのところに連れてこられた子供を止めようとした弟子たちを諌めて]イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」

(マルコ 10:13〜15、新改訳)

ところが、マタイは、この二つの別々の物語を混在させて、次のように書き換えたのです。

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、誰が一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて、子供たちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名の故に受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」

(マタイ 18:1〜5)

このように、マルコの二つの物語を混在させてしまったので、マルコ10章の物語は、マタイでは次のように間略化されています。
[イエスのところに連れてこられた子供を止めようとした弟子たちを諌めて]イエスは言われた。「子どもたちを、許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」

(マタイ 19:13〜14)

マルコの物語りにあった、「子どものように神の国を受け入れ[よ]」というメッセージが、ここでは完全に欠落しています。「幼子のようになりなさい」という言葉を、マタイは、だれが一番偉いか(18章)という物語の方と関連させて、「子どものように、自分を低く者が、天の御国で一番偉い」という教訓に書き換えてしまったからです。

ルカによる福音書をみると、ルカはマルコをほとんどそのまま受け継いでおり、「幼子のようになりなさい」という教訓言は、誰が一番偉いかという物語(22:24〜26)と一緒にしていません。

以上のことから、「幼子のようになりなさい」という教訓を、「子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い」という物語にしたてあげたのはマタイによる勝手な改作であって、もともとは、「子どものように神の国を受け入れなさい、神の国は子どものような人たちのものだ」という物語であり、人の上に立とうとするものはむしろ身を低くしなさいという物語は、「幼子のようになりなさい」という教訓とは関係のない、まったく別の物語であったことがうかがえます。

考えてみても、身を低くしなさいというへりくだりの教訓は、「幼子のようになりなさい」という言葉とはしっくり結びつきません。そんなことをするのは大人だけだからです。したがって、マタイの記述は下手な改作だとも言えます。


(3)「幼子のようになりなさい」

神の国は[子どものような者たち]のものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。

(マルコ10:14〜15,ルカ18:16〜17)

一体、「子どものように神の国を受け入れる」とは、どういうことなのでしょうか。マルコの記述にも、またマルコをそのまま継承したルカの記述にも、説明がありません。すでに上記で見ましたように、マタイは、それを説明しようとしてへたな書き換えを行い、つじつまの合わない話にしてしたてあげてしまいました。

わたしは、「子どものように・・・」とは、「素直に、従順に」というほどの意味ではないかと思います。また「神の国を受け入れる」とは、「神の支配を受け入れる、神の言葉を受け入れる」という程の意味だと思います。したがって、ここでは、子どものように従順に、キリストの教えを受け入れる者が、神の国に入る、というメッセージが語られているのだと思います。それは、裏を返せば、「疑ったり、調べたり、深く考えたりしないで、盲目的にキリスト教を信じなさい」、という意味にもなります。

「幼子のようになりなさい」という言葉は、新約聖書の代表的な言葉ですが、キリスト教でなくても、多くの信仰が、しばしばこの言葉を利用します。それは、信仰のドグマにはしばしば、客観的な根拠がなく、知的説得力に欠けていますから、そのドグマが人々に受け入れられるためには、「疑ったり、調べたり、深く考えたりしないで、盲目的に信じる者が救われる」という意味を持つこの言葉がたいへん便利だからでしょう。つまり、「幼子のようになりなさい」という教えは、宗教ドグマを盲目的に信じさせるための、伝道用あるいは洗脳テクニックとも言えます。