ですから、「神懸かり」という現象は、必ずしもインチキだとは言えないわけです。
本人が、自分の口から発せられる言葉を、「聖霊の賜物である」「死者の声である」
「神の言葉である」と解釈し、本気でそう思い込んでいるのですから、ウソではない
のです。ただ、それが、たんに自分の解釈にすぎないかもしれないことを自覚してい
ないだけだと思われます。
佐倉さんは異言に対しても自分なりの解釈をもってますね?
感心しました。
ギリシア語のグローサイは,新約聖書では2箇所に出てきます。
ペンテコステの日には,弟子たちが聖霊に満たされて異言を語った事実が述べられ
(使2:1‐13)ています。
コリント人への手紙で語られている(