佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 

rain-bowさん

00年10月5日


異言、他


こんにちは。

佐倉さんのHPをみて大変感激いたしました。わたしも神を自分の都合のいいように心 の中に勝手に作り上げていました。 わたしは以前、福音派の単立の教会に通っていた40歳の妻子持ちです。 その教会の牧師の権威主義的な態度に嫌気がさして行くのをやめました。 現在は信仰をもっていません。妻は教会に行っていますが、わたしは行っておりませ ん。

早速ですが、佐倉さんにお聞きしたいことがあるのです。

1.. 妻は自分で「わたしには異言の賜物がある」といい実際にわたしの目の前で、 なにやら奇妙な言葉らしい発声をしたことがありますが、いったい妻に何が起こった のでしょうか? 詳しく説明いたしますと、妻と結婚してまもなくのことですが、ある夜、寝室で彼女 に聞いてみました。(わたしは異言というようなものは全く信じておりませんでし た)

	わたし、「異言が語れるらしいけど、いったいどういうもの?」
	妻曰く、「うーん、どういうものといわれても・・・。」
	わたし、「一度異言で祈ってみてよ。」
	妻、「うーん、調子のいいときと悪いときがあるから・・・、
	うーん、できるかどうかわからないけど祈ってみるわ。」

そして妻は、わたしが今まで聞いたこともない言葉?かどうかわかりませんが発声しました。時間にして40〜50秒ぐらいだったでしょうか、わたしは何か気味の悪い思い がしたことを今でもはっきりと覚えています。 それ以来、異言のことはわたしからも妻からも話題に出ません。どちらも意識的に避 けているような気がします。

妻の友人にも異言を話す人がいるそうですが、妻は本気で「自分には異言の賜物があ る」と思いこんでいるようです。 しかし、ただ思いこんでいるだけではなく、実際にどこの言葉か何なのか知りません が、そのような奇妙な発声をするというのは、いったい何なんでしょうか?理解でき ません。

佐倉さんの意見の中に、

異言というのは、いわゆる「神懸かり」というヒステリー現象で、古代からいろい ろな宗教の記録にあります。ロックのコンサートや麻薬常習犯の間などでも見かける 失神現象やヒステリー現象と同種のものではないかと思います。閉じられた空間のな かで、音楽や歌や踊りや麻薬を利用して、一時的に集団をヒステリー状態に陥れるこ とは可能です。宗教がしばしば音楽や歌や踊りを利用しているのは偶然ではありませ ん。

とありますが、妻の場合は、一時的な集団ヒステリー状態の時ではなく音楽や踊りや 麻薬やお酒も飲んでいない、ごくごく普通の精神状態の時でした。 妻がわたしに、「自分は特別に神からの賜物をもらっているということを自慢しよ う」などと思っているとは思えません。いい格好をしようと思っているとは思えない のです。

自分は特別に神から愛されている、また特別に信仰がある、ということを人々に自慢 したいのであれば、一芝居うつこともあるいはあるかもしれません。しかし、妻の場 合はとても芝居だとは思えないのですが、佐倉さん是非教えてください。


2.. それからもう一つ聞いてください。

わたしがクリスチャンの友人に、「聖書の神なんて信じられない、間違いもあるし・ ・・」といったところ彼は、

「では、聖書が神が書いたものではないという証拠を見せてください。聖書にあや まりがあるから神が書かなかったというのは納得できません。神は意地悪かもしれないからです。そんな意地悪な神様だったら、いつも正しいなんていうのも疑わしいものです。でも、神が書かなかったという証拠にはなりません。意地悪な神だから聖書という嘘で満ちたものを書いて、人間達を翻弄するのを楽しんでいるかもしれないじゃないですか?僕が知りたいのは神がどんなお方であろうと聖書が神の書いたものではないという証拠です。また、例え神が、極悪な存在だろうと私にとっては、いるかいないかは重要な問題なのでXXさんがいうように神が存在しないのなら、その証拠を見せてください。また、キリストが3日後に復活しなかった証拠を見せてください。たしかに、聖書は復活について誤った記述をしているかも知れません。でもそれが、復活はなかった証拠になるんですか?人間の書くことなんていいかげんなことが多いので、実際の目撃したことを正しく記述していなかっただけであり、後世の人間が疑問をいだくような書き方をしただけかも知れません。できれば、西暦0年代に行って、復活なんてなかったという証拠写真をとってきて下されば、問題ありません。嘘かもしれないですが、復活は確かにあったと書いている人がいるのに、復活は確かになかったと正々堂々と書いている当時の人間がいないのはなぜですか?」

と、言われました。わたしは正直言ってあきれたのですが、このような意見にはどのように答えればよいのですか?是非教えてください。

これからも佐倉さんのHP楽しみにしています。





rain-bowさんへ

00年10月28日


(1)異言

そして妻は、わたしが今まで聞いたこともない言葉?かどうかわかりませんが発声しました。・・・妻の友人にも異言を話す人がいるそうですが、妻は本気で「自分には異言の賜物があ る」と思いこんでいるようです。

異言とは、本人も知らない異国語を喋ることを意味します。本人も知らない異国語を喋るということは何か別の力が働いていることを示唆しますから、聖霊の働きでは?というわけです。これは聖書の使途行伝の記録から来ています。しかし、rain-bowさんも「・・かどうかわかりませんが」と疑問を抱いておられるように、実際には、異国語ではなく、ただ無意味な音を口から発するだけのようです。

奥さんの友人にも異言を話す人がおられるそうですが、一週間ほど前、たまたま見た(米国のある)テレビの放送で、最近この異言がある一部のクリスチャンの間で流行していることを、わたしも知りました。

その放送では、ある学者が出て「あれは言語ではなく、無意味な音の羅列にすぎない」などと酷評していましたが、「自分の仲間たちがみんな異言(?)を喋るので自分だけ喋れないのは恥ずかしいので、自分も無意味な音を口から発してみた」、と一人の信者が正直に告白するのを聞いて、笑ってしまいました。

しかし、その大多数の人は「聖霊の賜物」と真面目に信じているようです。わたしもウソだとは思いません。それはこういうことだと思います。たとえば、予期しなかった人に偶然に出くわしたとか、ある言葉が感動的に心に響いて苦しみを乗り越えたとか、心配していたが何事もなくうまく事が運んだといったとき、クリスチャンはしばしばそれらを「聖霊の導き」であると解釈します

異言も同様だと思われます。すなわち、異言を語る人は、自分の意志ではなく、聖霊に身(口の動き)をまかせて、聖霊の働きのままに自分の口に語らせようとするので、結果として、無意味な音が口から発せられる、というわけです。そうして、口から出てきたその無意味な音を、自分にも理解できない言葉、すなわち「聖霊の導き」による異言である、と解釈するのです

これは、基本的には、「神懸かり」という現象の一種と言えるでしょう。キリスト教ドグマの影響の下では、使途行伝の記録に影響されて、「異言」という形になり、死者の霊を呼び起こすシャーマン系の宗教では、その教えられた伝統にしたがって、「死者の声」という形になり、巫女が神の舞を踊る宗教では、「巫女の踊り」という形をとり、ユダヤ教の預言者の伝統では、「神から預かった言葉」という形をとる、といった具合で、さまざまな形になります。

ですから、「神懸かり」という現象は、必ずしもインチキだとは言えないわけです。本人が、自分の口から発せられる言葉を、「聖霊の賜物である」「死者の声である」「神の言葉である」と解釈し、本気でそう思い込んでいるのですから、ウソではないのです。ただ、それが、たんに自分の解釈にすぎないかもしれないことを自覚していないだけだと思われます。

クリスチャンの異言に関して言えば、信仰を強める効果があるのだと思います。たとえば、「ああ、聖霊の導きというのは、ほんとなんだ」とか・・・。

ところで、異言は、他の種類の「神懸かり」現象に比べて、誰にでもできる簡単なもの(ただ無意味な音を口から出せばよいの)ですから、流行します。米国の教会でもそういう現象があるんだといううわさになって、日本の教会でも流行するようになったのでしょう。初期のキリスト教でも、異言が一般信者の間で流行しすぎて、教会はそれを静めようと苦労たらしいことが、新約聖書の書簡から伺うことができます。今日でも、この異言が流行しすぎれば、教会自体が、異言の意義を、否定はできないものの、過小評価することによって、流行を押さえようと働き始めることでしょう。神が直接個人に働きかけるという考えが一般信者のあいだで流行すれば、神と人との仲介者としての教会の存在価値が無くなるからです。

また、異言がテープにとられて分析されてしまえば、それが、言語としての構造など持っておらず、単なる無意味な音の羅列であることがばれてしまう危険があります。そうなればキリスト教の信頼性は台なしです。そういう意味でも、異言が一般信者の間で流行しすぎて社会的問題となっては、教会自体も困るわけです。

そういうわけで、キリスト教会の指導者たちがよほど思慮を欠いているのでない限り、異言は決して大きな現象とはならない、と思います。


(2)意地悪な神

聖書にあや まりがあるから神が書かなかったというのは納得できません。神は意地悪かもしれないからです。そんな意地悪な神様だったら、いつも正しいなんていうのも疑わしいものです。でも、神が書かなかったという証拠にはなりません。

まったく、この方の言われる通りです。「聖書には間違いがあるのだから、聖書は神によって書かれたものではない」、というわたしの論理には、神は全知全能であり、神は善なる存在であり、嘘をつかない、すなわち神の言葉は常に真である、ということ(クリスチャンの信仰)が前提にされています。

前提1 聖書は神によって書かれたので、間違いがない(信仰)
前提2 しかし、聖書には間違いがある(事実)
------------------------------------------------------
結論  ゆえに、聖書は神によって書かれたものではない。

したがって、神の言葉は常に真であるということ(前提1)が前提にされなければ、聖書に間違いがある(前提2)からといって、聖書は神によって書かれたものではない(結論)とは言えません。

おそらく、この方は、「聖書は神の言葉である」という教義を護るために、「神の言葉は常に真である」という、一般に受け入れられているキリスト教の教義を否定するという危険を冒しておられるのでしょう。上記の論理によって必然的に導出される「聖書は神によって書かれたものではない」という結論を否定するためには、二つの前提(前提1、前提2)のうちの少なくとも一方を否定しなければならないからです。

通常は、前提2(聖書には間違いがある)の方を否定する試みの方が多いのですが、聖書に間違いがあることはもう否定できないということもあって、前提1の方を否定する試みもなされることがあります。しかし、後者の場合は、おそらく、そのことによって生じるだろう困難について、あまり深く考えられていないのではないかとわたしには思われます。

たしかに、前提1を否定すること(神の言葉は常に真とは限らないと主張する)によって、「聖書は神によって書かれた」というドグマを護ることができます。しかし、今度は、そのことによって、「聖書は神によって書かれた」という主張することの意味がなくなってしまいます。つまり、これまでは、「聖書に書かれているから」という理由をあげて、さまざまなドグマ(イエスは神の子である、イエスは救い主である、人類の罪を贖うために十字架にかかられた、イエスは復活された、イエスを信じるものは救われる、等々)が主張されてきましたが、もし、「神の言葉は常に真とは限らない」ということになると、たとえ「聖書は神によって書かれた」としても、「聖書に書かれているから」という理由では、もう、真理を主張することはできなくなってしまうからです。

前提1 聖書は神によって書かれた(信仰)
前提2 神の言葉は正しいとは限らない(前提1を護るための言い訳)
------------------------------------------------------
結論  とすると、聖書に書かれているからといって、もう真理とは言えない。

尻尾を切り離して生き延びようとしたのでしょうが、実は、自分の首を絞めているのです。


(3)復活の報告

復活は確かにあったと書いている人がいるのに、復活は確かになかったと正々堂々と書いている当時の人間がいないのはなぜですか?

そもそも、この方は、「神の言葉は常に真とは限らない」と主張されたのではないでしょうか。すると、たとえ、聖書は神によって書かれているとしても、「復活は確かにあったと書いている」ことだけでは、もう、真理の根拠にはならないのです。意地悪な神がウソを言っているかもしれないからです。(^^)

それにしても、この方は新約聖書を読んだことがないのでしょうか。新約聖書自体が復活を信じない人々がいたことを記録しています。例えば、マタイによる福音書の復活物語(28章)です。そこには、イエスが墓からいなくなったのは、夜中に「弟子たちがやって来て、イエス[の遺体]を盗んでいった」からだ、という話が

広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。(15節)

と記録されています。さらに、イエスの復活を信じなかったのは「ユダヤ人」だけではありません。復活したイエスが直接顕現したといわれる11人の弟子たちの中にもいたことを、マタイは記録に残しています。

十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、[死から復活した]イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、あるものは疑った

(16〜17節)

復活したイエスを直接目撃したとされる弟子たち自身の中に、しかも、その顕現らしき事件の最中に、イエスの顕現を認めなかった人がいたわけです。

すでに、「聖書の間違い」で指摘していますように、福音書の間違いのなかでも、復活したイエスの顕現に関する矛盾はとてもたくさんあります。それは、イエスの顕現を報告する人物たちの報告の内容が食い違っていて、さっぱり一致しないからです。(弟子たちの復活証言の中で一致しているのは、イエスの遺体がなくなったという部分だけです。)

想像してみてください。イエスが復活したかどうかの裁判で、復活したイエスの顕現を証言するために呼びだされた証人全員の報告がみんな不一致であるという事態を!イエスが復活したことをなんとか証明しようとした信者の熱心が、その意図とは裏腹に、復活は事実ではなく作り話であることを示唆しているのです。


おたより、ありがとうございます。


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