このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。
00年8月27日
佐倉 哲様
ムーミンパパといいます。聖書研究のホーム・ページを作っています。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/3902/bible.html
僕は51歳のプロテスタント系クリスチヤンです。僕も聖書無謬説はとっていません。たとえば、「系図」は、「間違い」どころか、「意識的な創作」ということを僕のページでは掲載しています。これは旧約にも当てはまることです。このような聖書研究が成り立つには、20世紀初頭から、聖書の批判的な研究が(弾圧を押しのけて)進んだ背景があります。佐倉さんのご指摘の通りです。
コンピューター関連のお仕事をなさっているようですが、「バグのないソフトはあり得ない」ということと、「聖書には間違いがある」のと共通しているように思います。
さて、佐倉さんのページを拝見させていただいて、蓋然的または恣意的な解釈や見出しの作り方が気になりました。
たとえば、「ノアの洪水」ですが、ご存じの通り洪水伝説はいくつも残っていることが判明しています。「ギルガメッシュ」とは特定できません。それぞれの伝説との比較でその相似点と解釈の違いを論ずるべきだと思います。また、タイトルもいかにも受けねらいだと感じました。
旧約聖書にはJ.E.Pなどと区別される資料があり、それぞれの間には数百年の隔たりがあり、矛盾するのは当たり前で、しかもそれを並列的に記述しているのが聖書の特徴です。創造神話、ダビデの物語、列王記と歴代誌など、みなそうです。聖書の編者はそれぞれの資料を尊重し、割愛することなくまとめました。それをもって「間違い」と表現するのはいかがかなと思います。
佐倉さんの本意は「聖書無謬説を糾弾する」という事だと思いますが、これでは「聖書には間違いがあり、だから聖書もキリスト教も信ずるに値しない」と書いてあるように思えます。もし、そう思っていらっしゃるのだったら、そのように書いてください。
山本七平さんの著書には、佐倉さんが指摘された「間違い」のほとんどが書かれていますが、多くの方の共感を得ています。ダニエル書など、僕もいくつか指摘していますが、佐倉さんに見ていただきたくはありません。いいとこ取りして抜き書きされる気がします。
00/08/26 ムーミンパパ
00年9月5日
(1)「ノアの洪水」と「ギルガメッシュ」
たとえば、「ノアの洪水」ですが、ご存じの通り洪水伝説はいくつも残っていることが判明しています。「ギルガメッシュ」とは特定できません。それぞれの伝説との比較でその相似点と解釈の違いを論ずるべきだと思います。また、タイトルもいかにも受けねらいだと感じました。
「ノアの洪水の物語は盗作である -- 洪水物語は古代メソポタミアの文学から拝借したもの --」というわたしの付けたタイトルについて、「いかにも受けねらい」とおっしゃるのは、まったくそのとおりです。こういうタイトルをわたしが付けることになった背景には、「聖書の間違い」の読者対象として想定されているファンダメンタリストと呼ばれるクリスチャンの、つぎのような聖書観があります。
確かに聖書は40人ほどの人によって書かれました。・・・しかし人間が書いたからといって、彼らの書いた事柄が神の言葉でなくなるわけではありません。「人が聖霊に導かれつつ、神によって語ったもの」と聖書は説明しています。(ペテロ第二1:21)そうです、神は、天と地とすべての生き物を強力な聖霊を用いて創造されたように、聖書の記述も聖霊によって導かれたのです。・・・ 会社の社長が秘書に手紙を書かせるのと同じように、神は人々に情報を書き記させたのです。秘書は手紙を書きますが、その手紙に含まれている見解や考えは社長のものです。ですからそれは社長の手紙であって、秘書の手紙ではありません。同様に聖書は神の本であって、それを書くのに用いられた人々の本ではないのです。(ものみの塔聖書冊子協会、『地上の楽園』、48〜49頁)
こういう聖書観を持つ人にとっては、「古代メソポタミアの文学から拝借したもの」というタイトルは、それが、かれらの考えに真っ向から否定するものであることを簡単明瞭に表す効果的表現です。
ところで、ムーミンパパさんによれば「『ギルガメッシュ』とは特定できません」とのことですが、聖書の洪水物語が「ギルガメッシュ」の洪水物語から「拝借したもの」である、というわたしの判断の根拠については、「作者よりポイラ村さんへ 98年7月26日」や「作者より長谷川寿紀さんへ 98年10月23日」などを参照にしてください。
(2)聖書は客観的な資料集?
聖書の編者はそれぞれの資料を尊重し、割愛することなくまとめました。それをもって「間違い」と表現するのはいかがかなと思います。
「はじめに」でも明記していますように、「聖書の間違い」シリーズの目的は
「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味すること
です。つまり、聖書はいろいろの人によって書かれているけれど、その背後には実は聖霊の働きがあるから聖書は「神の言葉」である。すなわち、神自身が聖書の本当の作者であるがゆえに聖書は全体としても矛盾や間違いはない。このような聖書観の吟味です。いわゆる「ファンダメンタリスト」と呼ばれているひとびとの聖書観です。
このような聖書観に立てば、資料間に矛盾があることを認めることはできません。資料間に矛盾があるということは、少なくとも一方の記述は成立不可能であること、真実ではありえないことになるからです。つまり聖書は間違っていることになるのです。
ところで、わたしには、「聖書の編者はそれぞれの資料を尊重し、割愛することなくまとめました」なんてことはとても考えられません。どこからこんな考えが出てくるのでしょうか。たとえば、南方資料(J)に比べて北方資料(E)はほとんど「割愛」されてしまっています。Jからは全体の物語の姿がほぼつかめますが、Eからはできません。Eは断片集としてわずかにその姿を留めているだけです。これは、北方イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされたために、聖書は南方ユダ王国の資料中心にまとめられたからでしょう。わたしたちが手にする聖書のなかのJEの姿は、言ってみれば、二者が合併した姿ではなく、強者が弱者を吸収した姿です。
また、現代の聖書訳をみても、多くの貴重な資料が「割愛」されています。いったい、「ヘルマスの牧者」、「ペテロの黙示禄」、「クレメントのコリント人への手紙」、「バルナバスの手紙」、「ペテロの説教」、「使徒たちの教え」など初期のクリスチャンが利用していた資料を、聖書編者はどこにもっていってしまったのでしょうか。「それぞれの資料を尊重し、割愛することなくまとめ」たのではなく、自分たちの思想に合わないものは「割愛」し続けてきた、というのが聖書の歴史の実像ではないでしょうか。
さて、百歩譲って、「聖書の編者はそれぞれの資料を尊重し、割愛することなくまとめ」たことが事実であったと仮に想定しても、その資料の間に矛盾があるかぎり、資料の記述の少なくとも一方は真実ではありえなくなることに変りありません。したがって、依然として、聖書は間違っている、という表現は適切なものでしょう。
(3)だから聖書もキリスト教も信ずるに値しない?
佐倉さんの本意は「聖書無謬説を糾弾する」という事だと思いますが、これでは「聖書には間違いがあり、だから聖書もキリスト教も信ずるに値しない」と書いてあるように思えます。もし、そう思っていらっしゃるのだったら、そのように書いてください。
聖書が間違っているという事実が何を意味するか、わたしは来訪者とのやり取りの中で何度も繰り返して述べています。それはまず第一に、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」と考えるひとにとって、「聖書には間違いがある」という事実が明らかになるとき、聖書は神によって書かれた書ではないという結論がでることです。
(信仰)聖書は神によって書かれたので、間違いがない
(事実)しかし、聖書には間違いがある
(結論)ゆえに、聖書は神によって書かれたものではない。
そして、「聖書には間違いがある」ということから出てくるもう一つの重要な結論は、聖書に書いてあるからといってそれが真理であるとは言えない、ということです。つまり、聖書は真理の根拠にならないということです。
聖書は神の言葉ではなく人間の言葉であるということ。そして、聖書は真理の根拠にならないということ。この二つが聖書が間違いであるという事実から論理的に帰結される結論です。「聖書には間違いがあり、だから聖書もキリスト教も信ずるに値しない」などというような考えはわたしにはありません。
おたより、ありがとうございました。