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00年8月21日
Sunanezumiです。
しのはらさんへ (00年8月13日)を読んで、 もう少し詳しく佐倉さんのご見解をお伺いしたいと思いました。
その前に、私は、田川建三さんのファンの一人として、まず、 誤字を訂正していただくことをお願いいたします。 「健」になっていますね。
さてさて、田川さんは『書物としての新約聖書』(勁草書房、1997)で 聖書の翻訳についていくつか述べています。
「敢えて一冊というのなら、口語訳の方をおすすめするが、まあ、 やや正確に新約聖書を読もうと思われる方は、この二つ[口語訳と新共同訳]を 比較してお読みいただくのがいいかと思う」(P.669)。佐倉さんは、口語訳と比較した場合、やはり新共同訳を薦められるのですか? それは何かの長所があるからですか? それとも、「続編」というおまけが付いているからですか? 田川さんも、「続編」がないよりはあるほうがいい、と書いていますが(P.662)。
口語訳は確かに古いですが、教会で使われる翻訳に次のような訳を 導入したあたりに、翻訳者の心意気を感じられていいと思います。 「・・・・肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。 万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン」(ローマ9:5)。 新共同訳は旧来通り、キリストを神として訳しています。 「・・・・肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、 万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン」(ローマ9:5)。
次に関根正雄さんの『新訳旧約聖書』(教文館)ですが、 聖書を買いたいという人にこれを薦めるのはちょっと疑問です。 私も出てすぐに書店で手にして「ほしい!」と思ったのですが、 何万円もするので手が出ませんでした。 旧約全体の訳ではありませんが、岩波文庫から、 同じ関根さんの訳が出ています。訳注も豊富です。 買うのでしたら、こちらのほうがいいと思うのですが。 田川さんもそう言っていますし(P.689)、私の実感でもあります。
あと、『聖書の世界』(講談社)ですが、 新約部分の翻訳者は田川さん・八木さん・荒井さんだけではないです。 皆さんの名前を挙げないと失礼ではありませんか? 第一これはもう売っていません。 買いたいという人に薦めるものではないと思います。
田川さん自身はこの訳について『書物としての新約聖書』の中で 「今となっては、人様におすすめできるようなものではない」(P.663) と言っています。 私個人は、佐倉さんと同じく、この訳も大いに参考にしていますが。
なんだか細かいことをごちゃごちゃ書きました。すみません。 私としては、ただ、こういったことについての佐倉さんのご見解を もう少し詳しくお伺いしてみたいなあ、と思っただけです。
ということで、それでは、 佐倉さんの更なるご活躍を祈念しつつ・・・・。
written by Sunanezumi
00年9月2日
(1)誤字
田川建三さんのファンの一人として、まず、 誤字を訂正していただくことをお願いいたします。 「健」になっていますね。
早速訂正しました。ご指摘ありがとうございます。おそらく同じような間違いをわたしはあちこちでやっているに違いありません。
(2)新共同訳を勧めるわけ
佐倉さんは、口語訳と比較した場合、やはり新共同訳を薦められるのですか? それは何かの長所があるからですか? それとも、「続編」というおまけが付いているからですか? 田川さんも、「続編」がないよりはあるほうがいい、と書いていますが(P.662)。
そうです。「続編」が理由です。「続編」が理由というのは、紹介において説明していますように、宗派間(とくにカトリックとプロテスタントの間)や個人的な見解の間に、何が聖書であるかについて一致がないという重大な事実から出発できるからです。
通常は、カトリックの信者はプロテスタントの教会には行かないし、プロテスタントの信者はカトリック教会には行かないために、この事実に一生涯気づかないということになっているのではないかと思います。新共同訳では、カトリックの学者とプロテスタントの学者の共同作業であるために、この事実が一般読者の前に明らかにされざるをえなかったわけです。
現代においても、何が聖書であるかについて一致がない、という事実から出発すれば、聖書の歴史をさかのぼるとき、「続編」だけでなく、時代と場所によって、何が聖書であるかはかなり異なっている事実がさらに理解しやすくなるし、さらに重要な事実、すなわち、他の多くの聖書信者(ユダヤ教徒)からみれば、新約聖書そのものが聖典としてまったく認められていない事実なども理解でき、カトリックとプロテスタントに対してだけでなく、ユダヤ教とキリスト教に対しても、第三者として、より客観的な(主体的な)視点を得ることができるようになるだろうからです。
「続編」の存在はその出発点となり得る、というのがわたしの理由です。
(3)関根正雄『新訳旧約聖書』(教文館)
次に関根正雄さんの『新訳旧約聖書』(教文館)ですが、 聖書を買いたいという人にこれを薦めるのはちょっと疑問です。 私も出てすぐに書店で手にして「ほしい!」と思ったのですが、 何万円もするので手が出ませんでした。
わたしが、関根訳を勧めたとき、「出きれば・・・」と書かざるを得なかったのは、まさに、おっしゃる通りの理由からです。文庫本が部分訳でなく全訳なら、わたしも文庫本を勧めたことでしょう。しかし、図書館を利用するという方法もありますし、座右の書として長年あるいは生涯使用する価値があると考えて、買ってもよいと判断する人もあるかもしれません。
(4)『聖書の世界』(講談社)
あと、『聖書の世界』(講談社)ですが、 新約部分の翻訳者は田川さん・八木さん・荒井さんだけではないです。 皆さんの名前を挙げないと失礼ではありませんか? 第一これはもう売っていません。 買いたいという人に薦めるものではないと思います。田川さん自身はこの訳について『書物としての新約聖書』の中で 「今となっては、人様におすすめできるようなものではない」(P.663) と言っています。 私個人は、佐倉さんと同じく、この訳も大いに参考にしていますが。
新約聖書の場合は、お勧めする翻訳がないことをわたしははっきり述べました。
残念ながら、新約聖書のよい翻訳をわたしは知りません。 ・・・『聖書の世界』・・・が参考になるぐらいです。
講談社本は、あくまでも、「参考になる」ということです。それは、すでに述べておりますように、お勧めした新共同訳には欠けている「それぞれの著者の思想や特徴へ考慮を示した書」として「参考になる」ということです。とにかく、ほかに何もない(すくなくともわたしは知らない)のですから仕方がありません。
「これはもう売っていません」ということですが、やはり、図書館でも利用することができるし、この種の本は古本屋などで見つけることができるかもしれません。
(5)書物を書いた人間
書物にはそれを書いた人間がいる、というのは当たり前のことですが、キリスト教の世界においては、その当たり前のことが、「聖書は神の言葉である」というドグマの中で、埋没させられる強い傾向があります。しかも、しばしば、聖書翻訳そのものの中にすでにこのドグマが組み込まれているわけですから、聖書を学ぼうとする者にとっては、聖書にはそれを書いた人間 -- わたしたちと同じように個人的社会的時代的偏見を持った生身の人間 -- がいるという事実に少しでも注意を向けさせてくれる翻訳・研究が役に立つことは言うまでもありません。わたしの「勧め」はこの観点からからのものです。
おたより、ありがとうございました。