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00年7月21日
水野です。『聖書は神の書物ではない、と証明できた!?』に対して、長文に及ぶ丁寧な回答をいただき、ありがとうございました。
(1)聖書の神の存在/非存在を設定せずに、聖書批判はできないのでは?
「聖書の真偽について考える」とは、「聖書は偽である、と証明しようとする作業」であり、そのためには、「聖書の神は存在する、と仮定した立場から考えるべきである」ことが分かります。これはまさしく、「聖書の神の存在する可能性を無視すべきではない」という制限(行動規範)にほかなりません。というのも間違いです。第一に、上述しましたように、前提に無関係に結論の真 偽が決定できる場合(トートロジーと自己矛盾)があるからです。主張に自己矛 盾があれば、前提に無関係に、その主張が偽であることがただちに論理的に証明 されます。そもそも自己矛盾があることを示すのが、主張が偽であることを論理 的に証明することなのですから。
さらにまた、自己矛盾がなくても、主張と事実との間の不一致が明らかになれば、 その主張も偽であることになります。したがって、「聖書は偽である、と証明し ようとする作業」のために、「聖書の神は存在する、と仮定した立場から考える べきである」ことにはなりません。
人間が知ることのできる範囲外の事柄について語る聖書の性格上、「(聖書の)主張と事実との間の不一致」を明らかにする作業は、「聖書の神の存在/非存在を仮定する立場」と切り離してはできない、と思います。
たとえば、聖書にたくさん登場する奇跡の話などが良い例です。奇跡に関する聖書の記述は明らかに、わたしたちが知っている「事実」と一致しません。したがって、「主張と事実との間の不一致が明らかになれば、その主張(は)偽である」という佐倉さんの意見によれば、聖書は偽である、ということになります。
しかし、それは、知らないうちに、「聖書の神は存在しない、と仮定した立場」から考えた結論です。人間の知り得る事実を超越できる存在を認めないという前提に立っているから、そう単純に結論できているわけです。この結論を最終的な結論として採用できるのは、「聖書の神は存在しない」と知っているひとだけです。「聖書の神の存在は肯定も否定もできない」とするひとは、もう一方の立場、「聖書の神は存在する、と仮定した立場」からも考えなければなりません。
「聖書の神は存在する、と仮定して考える」と、聖書の神は聖書の中で全知全能の存在として設定されているので、奇跡はわたしたちが知っている事実には反するが、全知全能の神には可能かもしれない、と推定されます。こうして、「奇跡に関する聖書の記述は、正かもしれないし、偽かもしれない」というのが、最終的な結論になります。
このように、「聖書批判」と「聖書の神の存在/非存在の設定」は不可分の関係にあります。これを切り離して単純に人間の知識だけで聖書を批判すると、聖書が人間の知っている事実の範囲外の事柄を語る本であるゆえに、時として早まった判断を下す結果にもなりかねません。ゆえに、佐倉さんの意見、
自己矛盾がなくても、主張と事実との間の不一致が明らかになれば、その主張も偽であることになります。したがって、「聖書は偽である、と証明しようとする作業」のために、「聖書の神は存在する、と仮定した立場から考えるべきである」ことにはなりません。は間違いです。正しいのは、前回のわたしの主張、
(聖書の神の存在は肯定も否定もできないとするひとにとって)「聖書の真偽について考える」とは、「聖書は偽である、と証明しようとする作業」であり、そのためには、「聖書の神は存在する、と仮定した立場から考えるべきである」のほうだ、と思います。これについて、前回の補足をしながら説明します。
(2)なぜ「聖書の神は存在する、と仮定した立場から考えるべき」か(前回の補足)
前回も述べたとおり、聖書の真偽について考える際、想定される答えは3つあります。
(a)聖書は「真である」と客観的に証明できる → 聖書は真である (b)聖書は「偽である」と客観的に証明できる → 聖書は偽である (c)聖書の真偽は客観的に証明できない → 聖書は真とも偽とも言えない(前回の「論理的証明」という表現は確かにすべての証明方法を含んでいませんでした ので、すべての証明方法を含むという意味で「客観的証明」という表現にしました。)
まず、「聖書の神の存在は肯定も否定もできない」という立場にあるひとには、聖書の神は「存在する」という可能性と、「存在しない」という可能性が認められます。(1)で述べたように、聖書批判には聖書の神の存在/非存在の設定が伴いますので、それを加味して3つの答えを言い換えると、こうなります。
(a)聖書の神は「存在する」と仮定した立場と「存在しない」と仮定した立場の両方 から、聖書は「真である」という同じ結論に達する → 聖書は真である
(b)聖書の神は「存在する」と仮定した立場と「存在しない」と仮定した立場の両方 から、聖書は「偽である」という同じ結論に達する → 聖書は偽である
(c)聖書の神は「存在する」と仮定した立場と「存在しない」と仮定した立場の両方 から、聖書の真偽について同じ結論に達しない → 聖書は真とも偽とも言えない
まず、(a)についてです。「聖書の神は存在する」と仮定した立場からは、「聖書は真である」と結論できるかもしれません。しかし、「聖書の神は存在しない」と仮定する立場からは、「聖書は真である」とはならないでしょう。聖書の神が存在しなければ、「初めに、神は天地を創造された」という聖書冒頭の文章からして成り立たなくなるからです。このように、両方の立場から「聖書は真である」という同じ結論に達しないので、(a)「聖書は真である」ことはあり得ない、と判断できます。
(ここで論議の対象になっているのは、「聖書の神の存在は肯定も否定もできない」と する人々であり、『「聖書の神が存在しない」という可能性が事実認識としてある』 とは、彼らには「聖書の神が存在しない」可能性が認識される、という意味です。)
(佐倉さんによると、『(わたしは)前提を提示することなく、結論だけをまな板の上 にのせて、「証明できない」と判断している』とのことですが、『「聖書の神は存在 しない」という可能性が認められる』というのが前提になるのではないでしょうか。)
残りは、(b)か(c)です。前回も述べたとおり、(c)は、非(b)であり、(b)が証明不可能な場合の副次的な答えなので、当面考えるべきは(b)だけでよい、となります。つまり、「聖書の神の存在は肯定も否定もできない」とするひとが「聖書の真偽について考える」とは、(b)を試みること、つまり、『聖書の神は「存在する」と仮定した立場と「存在しない」と仮定した立場の両方から、聖書は「偽である」という同じ結論に達しようと試みること』、と言えます。
「聖書の神が存在しない」と仮定した立場から、「聖書は偽である」と結論するのは簡単です。前述のとおり、聖書の神が存在しなければ、「初めに、神は天地を創造された」という開口一番、聖書はデタラメを言っていることになるからです。したがって、残りの立場、「聖書の神は存在する」と仮定した立場から「聖書を偽である」と結論できれば、『聖書の神の存在を肯定も否定もできないという認識にのっとって、「聖書は偽である」と証明できた』ことになります。こうして、『(聖書の神の存在は肯定も否定もできないとするひとにとって)「聖書の真偽について考える」とは、「聖書は偽である、と証明しようとする作業」であり、そのためには、「聖書の神は存在する、と仮定した立場から考えるべきである」』、となります。
(3)「決定的な証拠」の意味
聖書は神を全知全能の存在として語っているので、「聖書の神は存在する、と仮定する」と、全知全能の存在を仮定することになります(もちろん、神の性質は全知全能のほかにもたくさん語られていますが・・・)。
わたしは全知全能の存在を仮定した結果、以前から、「神の前では人間のいかなる正論もくつがえされる可能性があり、究極的に正しいかどうかは分からない」と述べてきました。しかし、「人間のいかなる正論も」というのは間違っていましたので、訂正させてください。
人間は人間的見地から考えることしかできず、それ以外の判断基準はありません。ゆえに、ある主張が、その時点における人間の知識から見て100%保証された正論であるならば、たとえ全知全能の神が存在すると仮定しても、その主張は人間にとって「真」です。
「100%保証された正論」とは、たとえば、「地球が太陽の周りを回っていること」などのように、疑う余地のない事実として万人に認められる知識のことです。この種の知識は、将来的には否定されるかもしれないが、少なくとも現時点ではくつがえしようのない確実なものですから、もし聖書がこれと異なる主張をしているならば、聖書を偽とするだけの力を持つものです。佐倉さんが、
人間の知識は絶対的ではありませんから、確実だと思っていたものが実は誤っていた、ということにもなり得ます。したがって、前提にしていた知識の方が誤っていて、聖書の記述の方が正しかった、という事態も可能です。しかしながら、持っている知識を正しいと判断している間は、その知識と明らかに一致しない記述がある場合、たとえそれが聖書の記述であっても、それは間違いであると判断を下さねばなりません。そうでなければ自己欺瞞に陥ってしまうからです。
とおっしゃるとおりです。
前回わたしは、科学や考古学が、ここで言う「確実」な知識なのかどうかを疑問に思い、
実は聖書のほうが正しいかもしれないという逆転の余地を残している以上、科学や考古学などの知識は、「聖書は偽である」という決定的な証拠にはなりません。
と述べました。科学や考古学が「100%保証された正論」かどうかを不審に思ったわけです。このときわたしは、佐倉さんが理解されているような「神の判断」においての「決定的な証拠」を云々していたのではなく、あくまで「人間の判断」のレベルで、科学や考古学が確実な証拠と言えるのかどうかを考えていたつもりでした。つまり、「神による逆転」ではなく、「(他説を主張する)人間による逆転」を想定していたのです。
進化論を例にしますと、、進化論と同じ「科学」の名のもとに、創造論を支持する科学的主張を読むとき、わたしには進化と創造のどちらが正しいのか、よく分からないのです。進化論者の説明を読めば進化論が正しく思え、創造論者の説明を読めば創造論もあり得るように思えてしまいます。進化論は最も有力な学説(仮説?)に過ぎず万人が認める確実な知識ではないのかな、つまり、「100%保証された正論」ではないのかな、という無知な感想が、「(科学や考古学は)聖書のほうが正しいかもしれないという逆転の余地を残している」とわたしに言わしめたのでした。
ただ、それは言い過ぎだった、と思います。佐倉さんのように進化論に詳しい方にとって、進化論は「100%保証された正論」だろうからです。おそらく、佐倉さんは、創造論を支持する科学的主張を明確に否定するだけの根拠を既にお持ちなのでしょう。わたしには知識がなく、そのような根拠もないので、進化論はわたしにとって、聖書を偽とするには不足なものとなっているようです。
つまり、「進化論」が100%保証されていないのではなく、「わたしの知っている進化論」がわたしの頭のなかで100%保証されていなかっただけでした。あるいは、「進化論」が逆転される余地を残しているのではなく、「わたしの知っている進化論」が、逆転されかねない程度にしかわたしのなかで理解されていなかっただけでした。
いずれにしても、「聖書の神は存在する」と仮定した立場から、「聖書は偽である」と証明するには、100%保証された正論に基ずく「決定的な証拠」が必要だ、とわたしには思われます。前述のように、「決定的な証拠」とは神の判断によるものをいうのではなく、現在人間が知り得る知識に基ずくものです。それは他人からの受け売りではなく、自分で確かめ、「保証された」ものでなければなりません。いまだに創造論がなくならないから進化論は確実な知識ではないのかな?、という素人考えではなく、わたしがまず、進化論と創造論の確実性について調べる必要があるのだ、と思いました。
参考までに、創造論を支持する科学的主張に対する佐倉さんの意見をお聞かせください。
(4)「聖書」ではなく「新約聖書」の間違いだった
わたしは、前回述べた聖書の間違いを、人間にとって100%保証された正論だ、と判断し、ゆえに、「聖書は偽である」と証明できた、と考えました。しかし、
(神と人間との関係が、罪を犯しても密接に続いていくこと)を「不自然で、アダムが禁じられた木の実を食べた罪の重さをまったく軽いものにしてしまいます」と感じるのは、新約聖書(キリスト教)の色眼鏡(「アダムの罪をあがなうべく犠牲になったイエスの恥辱と苦痛の末の死、それによって表明された神の人類に対する愛などのキリスト教の中心教義」)で創世記を読むからでしょう。キリスト教から聖書の世界に入ったものの宿命です。
これはまさしくおっしゃるとおりでした。つまり、わたしは聖書ではなく、新約聖書の間違いを指摘していたに過ぎなかったのでした。
水野さんの観察は、新約聖書(キリスト教)が本来の聖書(旧約聖書)から逸脱していることを示す、重要な指摘だとわたしは思います。
新約聖書だけでも、偽である、と証明できたようで、とりあえずよかった、と思います。
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長々と冗長な文章ですみません。またご返事いただければ幸いです。では、失礼します。
00年8月13日、19日更新
(1)「聖書の神の存在/非存在を設定せずに、聖書批判はできない」?
人間が知ることのできる範囲外の事柄について語る聖書の性格上、「(聖書の)主張と事実との間の不一致」を明らかにする作業は、「聖書の神の存在/非存在を仮定する立場」と切り離してはできない、と思います。
聖書は「人間が知ることのできる範囲外の事柄」についてのみ語っているわけではありませんから、人間が知ることの出来る事実と一致していない主張があれば、当然、その主張に対する批判は成立します。たとえば、わたしたちは、地球上の植物は太陽のエネルギーなくして繁殖することが出来ないことを知っていますが、創世記の天地創造の記述によれば、太陽や月や星が作られる(第四日)前に、地上に植物が繁殖していた(第三日)ことになっています。そのため、地球上の植物は太陽のエネルギーなくして繁殖することが出来ないという知識を確信する者である限り、聖書のこの記述への批判は、「神の存在/非存在を設定せずに」成立します。
また、聖書には同じ事柄に関して矛盾した記述がありますが、その場合、それらの事柄の真相を知らなくても、少なくともその記述のうちのどちらか一方が間違っていることがわかります。たとえば、一つの記述(サムエル記上16章)では、ダビデがガトの出身のペリシテ人ゴリアテという巨人を殺したことになっていますが、他の記述(サムエル記下21章)では、巨人ゴリアテを倒したのは、ダビデではなく、エルハナンというベツレヘムの出身のダビデの家臣の一人であったことになっています。さらに、もうひとつの記述(歴代誌上20章)によりますと、(巨人ゴリアテを殺したのはダビデなのだから)、そのエルハナンが殺したのは、ゴリアテではなく、ゴリアテの兄弟ラフミであった、という訂正をおこなっています。つまり、サムエル記上とサムエル記下は誰がゴリアテを倒したかに関して矛盾し、サムエル記下と歴代誌上はエルハナンが誰を打ち倒したかに関して矛盾しています。このような場合も、「神の存在/非存在を設定せずに」、聖書批判は成立します。
(2)「創造論を支持する科学的主張」
創造論を支持する科学的主張に対する佐倉さんの意見をお聞かせください。
わたしは、「創造論を支持する科学的主張」にまだ出あったことがありません。そんなものがあるのでしょうか。神による宇宙の創造を主張するためには、科学の範疇から外に出て、形而上学的あるいは信仰的世界の中で主張せねばならない、とわたしは思います。
数年前、Michael J. Behe の DARWING'S BLACK BOX (Touchstone Book) と言う本が出て、はじめて本物の科学者(分子生物学者)による創造論の主張がなされた、というフレコミで、米国では関係者の間でちょっとしたセンセーションになりました。わたしも読んでみましたので、その例をあげます。
1章から7章までは、確かに、生物学者らしく、現代生物学の専門分野の面白い説明がなされていますが、問題の8章以後の後半、すなわち、「知的存在者」の存在を主張する部分になると、とたんに、へぼな形而上学者に堕してしまうのです。氏の主張は、生物の目的的複雑な構造には「デザイン」が認められるが、「デザイン」は知的存在者を想定させる、というものです。つまり、彼がその著書の後半でなしているのは、科学ではなく、いわゆる「ペイリーの証明」の焼き直し(哲学論議)なのです。優れた科学者(生物学者)が専門以外の領域(哲学)のことに関してしばしばナイーブな知識や技術しか持っていないことはよくある話ですが、Behe氏もまさにその典型です。
(3)「決定的な証拠」「100%保証された正論」について
このときわたしは、佐倉さんが理解されているような「神の判断」においての「決定的な証拠」を云々していたのではなく、あくまで「人間の判断」のレベルで、科学や考古学が確実な証拠と言えるのかどうかを考えていたつもりでした。つまり、「神による逆転」ではなく、「(他説を主張する)人間による逆転」を想定していたのです。・・・「決定的な証拠」とは神の判断によるものをいうのではなく、現在人間が知り得る知識に基ずくものです。佐倉さんのように進化論に詳しい方にとって、進化論は「100%保証された正論」だろうからです。おそらく、佐倉さんは、創造論を支持する科学的主張を明確に否定するだけの根拠を既にお持ちなのでしょう。
進化論は、創造論(信仰)とちがって、科学ですが、わたしはそれを「100%保証された正論」だとは思いません。「100%保証された」というのは、本質的に、科学や知識の性質にそぐわないものだと思います。「100%保証された」とか「決定的な証拠」というのは、信仰の世界の言葉であって、知識の世界ではつねに疑いの余地を残すものだと思います。なぜなら知識というものはその主張を支える認識的根拠があるからです。主張に根拠があるということは、その主張は覆される可能性があるということです。覆される可能性がない「100%保証された」とか「決定的な証拠」といった言葉は、主張に認識的根拠をもたない信仰の世界に所属する言葉だと思います。(「真理と論理、および真理の根拠」)
おたより、ありがとうございました。