佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 

あさがおさんより

00年5月2日

HPみました。賛成します

佐倉さま

 HPをみました。すごく驚きました。

 わたしは、クリスチャンであるので、もっと悲しんでいいはずなんでしょうが、わくわくと胸が踊った気さえしました。よくぞ言ってくれたという感じでしょうか・・・。(アーメン)

 わたしは、佐倉さんと同じで、聖書に懐疑的です。いや、聖書に、というよりもキリスト教の聖職者たち・クリスチャンに懐疑的であります。

 いくつかの反論にも答えておられましたが、「御言葉ですから」の一言で、聖書を盲信し、これを人に強要するその傲慢な態度に、わたしも強い不信感があります。かといって、キリスト教以外の宗教に正当性というよりは、「信じがい」を感じられず、途方にくれる毎日でありました。 あなたに疑問を寄せる人たちは、ほとんどがクリスチャンでしょうが、その文章の下品さ、低俗さ、論理の稚拙なこと・・・。こちらまで赤面をおぼえてしまうほどです。  クリスチャンとして土下座をして謝りたいくらいです。

 彼らのこのような態度こそは、過去、クリスチャン世界中で犯してきた数々の過ちを1ミリとて反省することのない哀れな態度です。それこそ救いようがありません。

 わたしの聖書への不信感は、ずばり、聖書全体をつらぬく「女性蔑視」「障害者蔑視」です。一言でいえば、弱者蔑視でしょうか。

   とくに、パウロの放つ言葉にはひどいものが多い。わたしは、パウロをそこまで女性蔑視に向かわせたものは一体何だったのだろうかと気の毒にさえ思います。そうして、それをこともあろうに、多くの教会で聖職者たちが、差別的な部分をわざわざ引用して説教をしている。

 現在いくつかとっている聖書の言葉のメルマガも、ひどい差別感情のものを平気でおくりつけてきます。抗議をすれば、「あ、誤解を招きました。でも、御言葉ですから・・・」と、やはりしっくりこない返答をする。  イエス・キリストが、安息日という形式にとらわれずに、ほんとうの神の心を求めなさいと、それまでの旧約の教えに反してでも、安息日に多くの障害者や病人を癒されたことの重大な意味を、現代クリスチャンたちは、なに一つかみしめずに呼吸をしている。なぜ、ほんとうの神さまの「心」をくまずに(それはつまり「愛」でしょう)、どうでもいいことばかりに心を煩わせて人を攻めたてるのか・・・。まことにおろかしい様です。

 クリスチャンの最大の罪は、他人の罪を問うくせに、みずからの罪には目を閉じることです。 そして、はげしい「内省」がないのです。家族より、兄弟より、人間より、なにより「神」こそを第一としろと言いながらも、じつは、聖書第一主義、パウロ教、人間教におちいっていくのです。 大体、聖書自体が矛盾にみちた言葉で貫かれているのが、諸悪の根源です。

 たしかに、当時ではだれも聖書に書いてある言葉や、パウロが、差別・偏見に満ちていたとは受け止められないでしょう。しかし、現代においては、あきらかに彼らは、偏見や差別をもって弱い人々を差別化し、見下していた部分がある。  現代において、わたしたちはその部分については、「それはいけないことなんだよ。」と反省することが必要なのに、それをせずして、「御言葉ですから」「聖霊によって書かれたものですから」の理由だけで、なんの前提もなく、「女はだまっていなさい。男の上に立つのをわたしはゆるさない」、「絶対服従しなさい」、とかを平気で押し付けてくる。

   彼らのそんな姿は、「現代」において生きているクリスチャンとしての責務を放棄しているとしか思えません。「聖霊」にみちびかれた聖戦によって、いままでに幾人の人々が殺され、略奪され、陵辱されたのか。女・子供・障害者は、まっさきに死んでいくのです。

聖書主義(聖書は聖霊の導きによって書かれたものであり、いかなる誤謬もなく、すべて真理である、という主義)の問題は、それが聖書に書いてあるというだけで、つまり、知識ではなく権威を盾にその真理が主張されるところにあります。だから、聖書の間違いを指摘することは重要なのです。聖書を絶対化することは聖書を書いた人々の言葉を絶対化することです。人間の言葉を絶対化することは、それが、天皇の言葉であろうと、ヒットラーの言葉であろうと、バチカンの法皇の言葉であろうと、教会の牧師の言葉であろうと、パウロの言葉であろうと、ペテロの言葉であろうと、わたしは認めません。

 あなたの言葉に賛成です。

 信徒といえども、しょせん血肉をもった人間。わたしは人間を信じるよりは、最終的には神をとりたい。人間を「神」のように信じるくらいなら、それこそクリスチャンとして「死」を選びたい。それは、イエスキリストが身をもって私たちに教えたことだからです。

 最終的には、わたしは佐倉さんとは異なり、クリスチャンとして内側から懐疑的な視線をおくっていく姿勢をとりますが、あなたの考えには学ばせられる部分が少なくないです。

 HPがんばってください。

 一クリスチャンより

      あさがお asagao209@anet.ne.jp  





作者よりあさがおさんへ

00年5月7日

「彼も人なりわれも人なり」


わたしはクリスチャンでもなく、いかなる宗教の信者でもありませんが、自称「内村鑑三の弟子」です。生きていれば内村はわたしを破門するでしょう(そしてわたしも遠慮なくかれを批判するでしょう)が、それでもかれの「弟子」であるとわたしが勝手に決め込んでいるのは、わたしの現在の立場が、かれの次のような信念の影響を受けていると思うからです。

法王何者ぞ、監督何者ぞ。しかり、ペテロ何者ぞ、パウロ何者ぞ。彼らは皆罪の人にしてキリストの救いに与かりしまたは与かるべき者にあらずや。彼も人なりわれも人なり、神は彼らによらずして直ちに余輩を救い給うなり。余輩は人として彼らを尊敬す。しかれども彼らはおのが信仰をもって教権を装うて、余輩に臨むべからざるなり。(明治49年)

--- 内村鑑三、『内村鑑三文明評論集』(三)山本七平編 より ---

かつて、日本にはこんなキリスト教徒もいたのですね。

あさがおさんの健闘を祈ります。


おたより、ありがとうございました。


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