なぜ、マルコやマタイは、「後で、イエスが本当に神の子であることに気付いた」一方の強盗に対して、イエスが「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言ったことを書かなかったのでしょうか。−それは、マタイ福音書やマルコ福音書が主にユダヤ人やユダヤ教に改宗した異邦人に宛てられているのからです。彼らには、ルカがここで言おうとした「不義者の復活」は関係ありませんでした。一方、ルカ福音書は明らかにテオフィロ様に宛てられています。(ルカ 1:1)ですから、彼のためにも「不義者の復活」に言及する必要があったのでしょう。(もっとも、ルカに聞かないとはっきりしたことは分かりませんが)ですから、これは矛盾ではありません。
マタイ福音書やマルコ福音書が主にユダヤ人やユダヤ教に改宗した異邦人に宛てられているのからです。彼らには、ルカがここで言おうとした「不義者の復活」は関係ありませんでした。第一に、たとえ、「マタイ福音書やマルコ福音書が主にユダヤ人やユダヤ教に改宗した異邦人に宛てられている」のが事実だとしても、どうしてかれらにとって、「不義者の復活」が関係ないのか、さっぱりわかりません。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」とイエスに言わせているのはマタイです(5章)。マタイは「「不義者の復活」は関係ありません」などと断言できるとは思えません。
第二に、もし、「後で、イエスが本当に神の子であることに気付いた」のなら、福音書にとって重大なことがらであり、どうしてそのことについえ何も書いてないのか理解できません。
第三に、マタイ福音書を読んでも、マルコ福音書を読んでも、ルカ福音書を読んでも、
最初は二人ともイエスをののしって いましたが、後で、イエスが本当に神の子であることに気付いた片方がもう片方 をたしなめた・・・と解釈できる根拠はどこにもありません。