Hiroshi-Kです。

「天地創造物語の矛盾について」へのご回答、ありがとうございました。 前回も申し上げましたが、私はクリスチャンでもないばかりか、何の信仰ももっておりません。 ですから100年近くの歴史をもっている聖書批評学にも、疎い者です。ご指摘よく分かりました。

しかるに私は科学の研究に従事する者であり、その観点から考えるに、 佐倉様の回答には充分に納得できません。

科学でもどんな分野の学問でもそうですが、 今や「その学問の理論(概念)は人間の関数である」というのが常識になっています。 つまり、すべてが人間の営みです。人間が考え、人間が解釈し、人間がつくり出すものです。

聖書もそうでしょう。人間が書いたものです。当然間違いもあります。しかしそれをどう解釈するかも、 また人間の営みでしょう。

「絶対者である神がいない」という仮説の下に聖書を解釈すれば、佐倉さんの回答は正当です。 しかし「神がいる」という仮説の下に解釈すれば、逆におかしく聞こえます。

創世記 2:4b-22aを詳しく載せていただきました。それを書いたのは人間でしょう? ですからそれを書いた人の常識でしか記せないのです。概念は人間の関数ですから。 神が語りかけたか、何かを見せたのか知りませんが、その体験を作者が「そう解釈」したから、 「そう書いた」のです。

例えば

ヤーウェ神は「人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた」のです。
これだって、神の考えの中で、神がそう見ている姿を、作者がそう解釈した、と言えば済みます。

このように、表現に「構想を練っている時の筋道が明記されていない」ということが、 即私の説への反証になるとは思えません。 もちろん、私の説が正しいという論証もできません。 どっともどっちではないでしょうか?

絶対者である神がいる立場をとる人から見れば、神は人間のそういったアバウトな性質を知っていても、 なおかつ聖書を人間に編纂させたのですから、解釈者もそのアバウトな面を考慮し、 解釈すればいいのです。

まったく違った分野なので、うまく表現できません。最後に私の専門分野の話でたとえて終わりにします。 アインシュタインは、マイケルソンとモーレーという学者の実験結果(光速度不変)を「正しい」として、 特殊相対性理論を築きました。現在、この理論の正しさは立証されています。 しかし、それまでのニュートン力学の常識では、光速度は不変にならないのです。 ですからこの実験自体が「間違い」とされて来たのです。

聖書が神の関与した書物か否かも、これと同じことだと感じます。 神の存在を肯定して展開される理論(教義?)と、否定して展開されるそれの当否は、 どちらがより多くの現象、学問、倫理、道徳、などを包括できるかにかかっていると考えます。

PS

「別にクリスチャンではありません」といわれるHiroshi-Kさんが、どのような動機で聖書矛盾の調和化ということを試みられたのか、わたしにはわかりませんが、
私は科学者として、佐倉様が豊富な知識でさまざまなご説を展開しているわりには、「詰めが甘いのでは」と判断しただけです。私が「聖書を神の書物だと信じる人物」だと仮定した場合、私を納得させるだけの反証がない、というのが動機です。

Hiroshi-Kさんの解釈ははなはだ不自然で多くの困難を含んでいると思います。


(1)神(非)存在の仮説

「絶対者である神がいない」という仮説の下に聖書を解釈すれば、佐倉さんの回答は正当です。しかし「神がいる」という仮説の下に解釈すれば、逆におかしく聞こえます。
どうして、「神がいる」という仮説の下に解釈すれば、二つの創造物語の間に矛盾があるという解釈が「おかしく聞こえ」るのでしょうか。前回も指摘しましたように、そもそもこの「二つの創造物語の間に矛盾がある」という解釈は神を信じているクリスチャンの解釈です。彼らは、神の存在を信じていても、聖書の無誤謬性を信じていないからです。私自身も聖書の無誤謬性は否定していますが、神の存在は否定していません。

わたしには、神の存在を認めれば聖書の無誤謬性を認めなければならない、という論理的必然性は見えません。神が存在していても、聖書は神とは関係ないかもしれないからです。どのような根拠で、「「神がいる」という仮説の下に解釈すれば、[聖書に矛盾があるという解釈は]逆におかしく聞こえます」と言われているのでしょうか。まだ「科学の研究に従事する者」の観点というのがよくわかりません。どこが、私たち一般人の観点と違うのでしょうか。


(2)構想順序と構想内の創造順序

例えば
ヤーウェ神は「人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた」のです。
これだって、神の考えの中で、神がそう見ている姿を、作者がそう解釈した、と言えば済みます。
矛盾を調和するために第二の創造物語を「神の構想中の物語」であるという無理な解釈をすると、結局、そのように、解釈せざるを得ないでしょう。つまり、第二の創造物語の「男→植物→動物→女」の順序は、たとえば、映画や演劇の監督が第三幕を第一幕より先に構想するような、構想順序ではなく、構想の中の創造順序と解釈せざるをえません。例にあげたように、詳しく読むと、第二の創造物語の「男→植物→動物→女」の順序は、それぞれ、前の段階を引き継いで次の段階へ発展するような物語であって、後に起こったことを先に考えているというようには解釈できないからです。

もしそうだとすると、実際の創造順序(第一章)と構想中の創造順序(第二章)は矛盾していることになります。つまり、神は自分が構想していた創造順序とは別の順序で創造したことになります。これは全知全能で未来を知っている神としては考えられないことです。


(3)不自然な文章解釈

表現に「構想を練っている時の筋道が明記されていない」ということが、即私の説への反証になるとは思えません。 もちろん、私の説が正しいという論証もできません。どっともどっちではないでしょうか?
もちろん、「構想を練っている時の筋道が明記されていない」ということが、そのまま、第二章の創造物語が神の構想中の事柄である問う説の反論にはなりませんが、構想中の事柄であることを示すものが皆無であるために、それはいちじるしく不自然な解釈だと言えます。事実ではなく心の中の構想を語るときは、「・・・と思った」とか「・・・と心に浮かんだ」というようなそれなりの言及があるのが普通だからです。「どっともどっち」ではなく、一方は自然で他方は不自然です。


(4)堕落物語

さらにまた、前回の引用でも示したように、アダムとエバの堕落物語が第二の創造物語の中で始まっています。つまり、園の中央にある木の実とそれを取って食べてはならないという神の命令への言及です。もし、第二章の創造物語が神の構想中の物語であるとすると、三章、四章へと続く堕落物語は、まだ構想中の物語なのでしょうか、それとも、実際の物語なのでしょうか。

もし、第二章の部分だけが構想中の物語で、三章、四章はそうではないと解釈すると、堕落物語の一部は構想中で、その続きは実際の物語である、というとても不自然な解釈になります。そうではなく、三章、四章も構想中の物語であるとすると、堕落物語はすべて神の心の中だけで起こったことになり、キリストの十字架による贖罪の必要性が無くなり、キリスト教の存在意義そのものが失われてしまうことになります。


(5)どこからどこまで

いったい、どこからどこまでが神の心の中を述べたもので、どこからどこまでが、事実を述べたものなのでしょうか。そして、それを区別する条件は何なのでしょうか。


(6)矛盾の調和化

私が「聖書を神の書物だと信じる人物」だと仮定した場合、私を納得させるだけの反証がない、というのが動機です。
もちろん、真実を知ることよりも、ドグマを正当化しようと思えば、どんな矛盾であろうと調和化しようと思えばできないことはありません。したがって、「聖書は神の言葉であり、誤謬はない」というドグマに固守しようとすれば、いかに不自然で無理な解釈を必要とするか、この事実さえ明らかになればよいわけです。