お久しぶりです。

教えていただけないでしょうか。今回、少しおかしなものをお送りします(添付)。 「白道燃ゆ」という本の一節です。「白道.txt」として抜き出しました。

 親鸞会という浄土真宗系の新興宗教をご存じありませんか。
http://member.nifty.ne.jp/shinrankai/

ハトの会<http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Kaigan/1062/>と激しい論争をしています。 「白道燃ゆ」は親鸞会の会長が書いたそこの会の聖典です。最近入手しました。  親鸞会と名乗り、浄土真宗を謳っていますが、内実は浄土真宗とは無関係です。思想はキリスト教の一派に近いでしょう。

 明治、大正期のクリスチャンの書いた信仰論を読んだことはありませんか。添付した文章は、内村鑑三、新渡戸稲造、海老名弾正あたりの著作からの引用ではないかと思います。出典を探しています。  もし出典で心当たりがあればお知らせいただけないでしょうか。必ずキリスト教関係に出典があるはずなんです。  出典の雰囲気をつかむため、「白道燃ゆ」の文章から類推できるキリスト教的文章を「白道2.txt」として添付します。

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渡海 難
インターネット浄土通信
URL http://www3.justnet.ne.jp/‾katasi-park/
E-mail katasi-park@ma3.justnet.ne.jp
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-----------「白道燃ゆ」より------------
◎浄土や地獄は実在するのか

「浄土や地獄は、本当に実在するのか」と、尋ねる者に対して、「あると信ずる人にはあり、無いと思う人にはない」と、答える人が多い。 然し、こんな無責任な返答はない。問者を愚弄する以外の何ものでもない。 古来、あるから信ずるのか、信ずるからあるのか、どちらが一体先なのか、論じられてきた。 何らかの形で実在するから、私達は、それを信ぜざるを得ないのだ、と言うのは存在論の考え方である。反対に、信ずるから、ものごとがあるのだ、と言うのは観念論者の考え方である。どちらが本当なのか。 私は考える力、信ずる働きが物事と我々を結びつける媒介役をし、人間を万物の霊長たらしめたのだから、観念の力を徒らに軽視したり、否定したりはしないが、信ずるから、浄土や地獄があるのだ、と言う観含論には、絶対に承服できない。 実在するからこそ、信ずる心も当然起こってくるのであって、信じたから実在するのではない。 心だけで、何でも作れると思うのは、観念論者の夢である。浄土や地獄は、そんな影や灯の如きものではない。 人間の、ささやかな信や疑によって、その存在が左右されるというようなことになれば、仏説は嘘妄になり、体験にもあわない。 金剛信に徹して、解脱の光輪の慈照を蒙むれば、我らの家郷に父母あるが如く、浄土に弥陀ましますことを信ずる。 浄土や地獄の実在を理解してから、信心獲得するのではない。この信心のうちに、浄土も阿弥陀仏の実在を認めることも、地獄の実在を認めることも含んでいるのである。 我々が、月の光で月の存在を認めるが如く、仏智を諦得すれば、鮮かに知られる。人間が信ずるとか、信じないとか、あると思うとか、無いと考えるとか、いうような主観的な意識を超越して常住する。 浄土や地獄の実在も、この世に浄穢苦楽の別あるが如く、来世にも、最も幸せな世界と、三悪道のような悲惨な世界があるということは、当然である。 それを、あるが如く、無きが如く言うのは、信心決定していない証拠である。

◎天国や地獄は実在するのか

「神、天国、地獄は、本当に実在するのか」と、尋ねる者に対して、「あると信ずる人にはあり、無いと思う人にはない」と、答える人が多い。 然し、こんな無責任な返答はない。問者を愚弄する以外の何ものでもない。 古来、あるから信ずるのか、信ずるからあるのか、どちらが一体先なのか、論じられてきた。 何らかの形で実在するから、私達は、それを信ぜざるを得ないのだ、と言うのは存在論の考え方である。反対に、信ずるから、ものごとがあるのだ、と言うのは観念論者の考え方である。どちらが本当なのか。 神が、物事と我々を結びつける媒介役をし、人間を万物の霊長たらしめたのである。信ずるから、浄土や地獄があるのだ、と言う観含論には、絶対に承服できない。 神は、実在するからこそ、信ずる心も当然起こってくるのであって、信じたから実在するのではない。 心だけで、何でも作れると思うのは、観念論者の夢である。神や天国は、そんな影や灯の如きものではない。 人間の、ささやかな信や疑によって、その存在が左右されるというようなことになれば、3000年のユダヤの教えは嘘妄になり、体験にもあわない。 神への信仰に徹して、神の愛を蒙むれば、我らの家郷に父母あるが如く、神ましますことを信ずる。 神や天国の実在を理解してから、神を信仰するのではない。神への信仰のうちに、天国も神の実在を認めることも、地獄の実在を認めることも含んでいるのである。 我々が神の義を体得すれば、神は鮮かにその存在が知られる。人間が信ずるとか、信じないとか、あると思うとか、無いと考えるとか、いうような主観的な意識を超越して存在する。 天国や地獄の実在も、この世に苦しみがあるが如く、来世にも、最も幸せな世界と、地獄の世界があるということは、当然である。 それを、あるが如く、無きが如く言うのは、信仰を得ていない証拠である。

新渡戸稲造や海老名弾正については知りませんが、内村鑑三について言えば、これは内村鑑三からの影響とはとても考えられません。内村が「浄土や地獄は、本当に実在するのか」とか「神、天国、地獄は、本当に実在するのか」というようなことを問題にしていたとは考えられないからです。

浄土や地獄の実在を理解してから、信心獲得するのではない。この信心のうちに 、浄土も阿弥陀仏の実在を認めることも、地獄の実在を認めることも含んでいるのである。我々が、月の光で月の存在を認めるが如く、仏智を諦得すれば、鮮かに知られる 。人間が信ずるとか、信じないとか、あると思うとか、無いと考えるとか、いうような主観的な意識を超越して常住する。 ・・・ 神や天国の実在を理解してから、神を信仰するのではない。神への信仰のうちに 、天国も神の実在を認めることも、地獄の実在を認めることも含んでいるのである。我々が神の義を体得すれば、神は鮮かにその存在が知られる。人間が信ずるとか、信じないとか、あると思うとか、無いと考えるとか、いうような主観的な意識を超越して存在する。(「白道燃ゆ」より)
ここで述べられている主張は、信仰によって浄土や地獄の実在、神や天国の実在が「知られるようになる」ということだと思います。しかし、この、「仏智を諦得すれば、鮮かに知られる・・」とか「神の義を体得すれば、神は鮮かにその存在が知られる・・・」などというような考えは、内村の思想にはありません。内村にとって、解っている事柄は知識であって信仰ではないからです。
解し得ざることを信ずる。これを信仰という。・・・解し得ることを信ずるは知識にして信仰にあらず。

(『内村鑑三 文明評論集(三)』15頁)

われは・・・来世の在るを聞いて喜ぶなり。・・・われはこれを科学的に証明を供する能わずといえども、われはこれを信じてわが心は安心し、これを望んで歌はわが唇にあり。

(同上(二)、116頁)

さらに、内村はつぎのようなショッキングなことを言います。
神は有りと言う者必ずしも信者にあらず。神は無しと言う者必ずしも不信者にあらず。常に事物の光明的半面に着眼する者、これ信者なり。その暗黒的半面に着眼する者、これ信者なり。

(同上(四)、87頁)

信仰が内村にとって最も重要なものの一つであったことは疑うべくもありません。しかし、それは「来世の在るを聞いて喜ぶなり」というような態度のことであって、信仰によって神や天国や地獄の実在を知るようになる、というような主張は、きわめて非内村的考えだと思います。