宗教というものは、それを信じている人が生み出しているものによって 見分けていくべきだと思います。
私が思うに、エホバの証人の人々は、人間的に立派な人たちが多いです。 社会の模範といっても過言ではないと思います。
彼らは数多くあるキリスト教団体の中でもトップクラスに位置していると思います( 特に愛の実践において)。 ただ、環境問題においてやや遅れをとっていることは残念でなりません。 しかし、すくなくとも、彼らは一般のキリスト教よりは聖書に忠実です。 そのへんのことを社会の人々は認めていく必要があると思います。
ご意見をお待ちしております。
みどりが好きな大学生(20歳) 東京都
99年5月8日
エホバの証人の人々は人間的に立派な人たちが多い・・・わたしもそう思います。しかし、「人間的に立派」だからといって、彼らの主張が真理であることにはなりません。
ある教義が人を幸福にする、有徳にする、だからそれは真理である、というほど安易に考える者はいない。・・・幸福や道徳は論拠とならぬ。ところが、思慮ある人々ですらも、不幸にし邪悪にすることが同様に反対証明にはならぬ、ということを忘れたがる。たとえ極度に有害危険なものであろうとも、それが真であることを妨げはしない。人間の様々な主張の中で、それが、ある特定の人間やその言葉を、絶対化したり神聖化するとき、そしてその主張が人々を動かし、社会を動かす大きな力を持つようになるとき、その主張を吟味することなく無視することは、歴史を振り返るとき、決して賢哲な判断とは思えません。自由で、オープンなディスカッションの中で、そのような主張は吟味されねばならない、とわたしには思われます。(ニーチェ、『善悪の彼岸』竹山道雄訳)
そして、このことは、かつての十字軍や、大戦当時のナチや日本軍部や、現代のオウム真理教などのような、急激的破壊活動を行う運動の思想にだけでなく、病院や学校を建て、貧者を救い、弱きものを助ける、穏健な善人活動を行う運動の思想にも当てはまります。むしろ、後者の場合にこそ、よりいっそうの努力が必要であろうと思われます。なぜなら、善人であることは、その人の思想が真理であることを保障するものではないからです。にもかかわらず、善人であるが故に、その思想の虚偽性が疑われることを免れている、というのが人間社会の現実だからです。 (「はじめに」より)
彼らは一般のキリスト教よりは聖書に忠実です・・・聖書は誤謬の多い書物ですから、「聖書に忠実」であることは、ほめられるべきことではないでしょう。聖書を「間違いのない神の言葉である」と信じることから出発しているところが、エホバの証人の最大の欠陥のひとつだと思います。
エホバの証人の教義には認めることのできないものがたくさんありますが、わたしはエホバの証人の人たちが嫌いではありません。むしろ、大変好意を抱いています。しばしば、わたしのところへも訪問していただいていますが、いつもたのしく学ばさせていただいています。