佐倉さん、はじめまして。

私は、パソコン自体になじみの無い者ですが、何とかメールを送れるようになりましたので、自分なりの感想を、書いてみたいと思います。

今まで1年半ほどこのホームページを拝見続けてまいりましたが、その中で気づいたのですが、聖書の間違いに関してだけ、どんどん意見交換がされて行き、その外のテーマは、あまり更新されていない現実がありますね。 世論、特にクリスチャンの方々に対する、このテーマの重要性を、感じずにはおれません。 格言う私も、自分では、キリスト者であると、認識しておりますが・・・。

私が感じた事は、クリスチャンの方々の、何とか佐倉さんに、「聖書は正しいんだ」と言う事を知ってもらいたい気持ち(悪く言えば、押し売り)が、ことごとく受け入れられず、逆にクリスチャンサイド同志にも聖書理解や、教義面での食い違いを感じたりしてして、見ていて心が痛みます。

「自然科学も信仰」には、同感も覚えますが、私達は科学者の苦労を知りませんから、その信仰を、攻める事は、出来ません。 また、どれほど科学が進歩しても、科学の限界がある事を、学者自体が、理解しているのです。

科学には、命を作る事はできません、不老不死や、生命を創造する事は無理だと、結論が出ているのです。(いいや、時間と努力が可能にすると、信仰を持たれている方は、挑戦してください。) けれども、その手前までを、可能にした事は、素晴らしい事です。

わたしは、キリスト者は、その枠の外に信仰を持っていと考えます。 科学で解かれる事は、科学に委ね、生命の意義や、その目的を、知る事に重きを置きたいのです。 聖書に間違いが在るか無いかは、議論するものでは無く、神様を信じるか信じないか、(佐倉さん的に表現すれば、思い込むか込まないか)しかないのではないでしょうか。

佐倉さんとて、御自身の体験から出た考察を、エッセイとして発信しておられるだけで、キリスト者もその信仰体験により救いを確信しているだけなのです。 否定するものは、キリストを十字架にかけ、信じるものは、永遠の約束を受けるのです。 しかし、否定するものも、信じるものも、罪人も義も、科学も宗教も、この世の全ては、絶対者、創造主の、許容の中に今は、生かされており、最後にしか、その真贋は、解らないのです。 (それぞれが到達しているレベルや、土台にしか建つ場所はないからです。)

元々のメールの主旨とは、些か違った気がしますが、どちらかといえば佐倉さんへと言うよりは、色々な意見を述べておられるキリスト者の方々に、意見を述べたようになりました。

最後に佐倉さんへの質問(愚問)です。

私は、聖書に記されたごとく神様がおられ、万物を、目的を持って創造したと信じております。人間には、本能的に理性と愛を与えられ、その使い道も与えられていると、考えておりますが、佐倉さんは、万物は何の目的も無く偶然の産物だとお考えなのでしょう か。

もしそうなら、人類の或いは万物の存在意義は何処にあるのでしょうか、理性や愛さえ、空しいものの様な気が致します。

それともう一つ、旧約聖書にも、永遠の命に対する言及は、あります。しかし、人は神との断絶により死ぬものとなりました。神は、生命の木を守らせ、最初の人類を園より追放しました。(それ以前に、死はありません) ですから、旧約聖書は、断絶と死の中での契約ではないでしょうか。 そして、新約聖書は、キリストの救いの信仰による、回復と、復活の契約ではないでしょうか。 旧約には永遠の命の望みが直接的に無く、新約には在る、これが突然新約聖書に永遠の命のことが、頻繁にかかれた理由ではないでしょうか。

長々とお付き合いありがとうございました。

Wejloveより、佐倉さまへ

99年3月18日



実存的信仰について


佐倉さんへの質問(愚問)です。佐倉さんは、万物は何の目的も無く偶然の産物だとお考えなのでしょうか。もしそうなら、人類の或いは万物の存在意義は何処にあるのでしょうか、理性や愛さえ、空しいものの様な気が致します。
この質問はとても大切な質問だと思います。とくに、現代キリスト教の信仰の理由が、多くの場合、「意義」や「空しさ」というような、実存的理由であると思われるからです。以下は、この問題に関するわたしの考察です。永遠の命に関してのご質問にはまたの機会にお応えしたいと思います。


(1)問われている事柄 -- 万物についての質問か万物の背後にあるものについての質問か

佐倉さんは、万物は何の目的も無く偶然の産物だとお考えなのでしょうか。
一見このご質問は、万物そのものについての質問のように見えますが、よく読み返してみるとそうではなく、万物そのもの(色や形や構成要素やその発展史)についての質問ではなく、万物の背後にそれを存在あらしめる意図をもった創造者が存在するかどうか、という質問です。わたしには、人工物にはそれに手を加えた人の意図があったことはわかりますが、自然物(石ころや人間)に関しては、その背後にそれを形作った意図をもった人格があったかどうかはまったく明らかではありません。人工物は、それを造った人物も造られる過程も、わたしの認識のとどく領域内にありますが、神の存在はわたしの認識の届く領域を越え出ています。したがって、万物についてではなく、万物の背後にあると想定されているものについての質問には、答えることはできません。


(2)判断方法の選択 -- 事実判断に実存的理由は適切か

もしそうなら、人類の或いは万物の存在意義は何処にあるのでしょうか、理性や愛さえ、空しいものの様な気が致します。
存在の背後に創造者がいるかいないかというような、事実に関する問いに対して、認識的根拠によってではなく、「存在意義」とか「むなしさ」のような個人の実存的理由によって判断を下すのは、大きな過ちだと思います。それは、いわば、体重を量るのに、体温計を以てするような根本的な取り違えであって、その判断結果はまったく無意味です。体温計の針が体重に関しては何も教えてくれないように、客観的事実を知るのに実存的理由(個人的願望)は何の役にも立ちません。「そうあって欲しい」とねがう個人の実存的願望と「そうであるかどうか」という客観的事実はまったく関係がないからです。

気象情報を提供する者が、客観的な気象データを根拠にしてではなく、明日雨が降れば大切な休日が台無しになってしまうから、という個人的願望理由で天気予報の判断を下すとしたら、それはまったく無責任な判断です。同様に、神がいるかどうかという事実に関する問題に対して、神がいなければ人生はむなしいなどというような実存的理由をもって判断を下すのも、まったく同次元の、無責任な判断だと思います。

「ある」とか「ない」とか、事実に関する判断を語るときは、たとえ実存的理由(個人的都合)に反することであっても、客観的な認識的根拠のみによってなすのが、語る者の道義的責任だと思います。


(3)存在目的とむなしさ -- 無目的的存在はむなしいか

すべてのものに存在目的がなければ人生はむなしいのでしょうか。わたしには、むしろ、もしすべてのものの存在目的がすでに決定しているなら、それこそ、人生はむなしいのではないかと思います。何を描くのかすでに決められた「ぬり絵」は価値創造者を失望させます。「無意味な」白紙のキャンバスこそ価値創造者にとってふさわしいものです。すでに敷かれたレールの上を歩む人生は冒険者を失望させます。「無意味な」道のないところに道を切り開くのが冒険者にとってふさわしいものです。価値を誰かから与えられることを期待するよりは自ら価値を創り出そうしているとき、すなわち、やりたいことで満ちあふれているとき、「むなしさ」はわたしたちにもっとも縁遠いものとなると思います。