こんにちは。
佐倉さんは紳士的に対話して下さるので嬉しいです。そうでない方々との対話はホン ト辛いものがあり、「や〜めた」と匙を投げたくなりますよね。
佐倉さんwrote:
もしお気に入らないようでしたら、変えますが。
プータンwrote:
そのままで結構です。
佐倉さんwrote:
「コップがそこに本当に実在しているかどうか」というのは疑似の疑いであり、問題 のないところに問題があるかのように偽装した「疑似の問題」です。
プータンwrote:
コップ(もの)にしろ、自分にしろ、本当に在るのかどうか悩んだ哲学者達はようけ おります。彼等は決して「問題のないところに問題があるかのように偽装した」わけ ではありませんし、「たんなるポーズ」でもありませんでした。
佐倉さんwrote:
すべての知識にはそれを成立させている根拠があります。論理的に言えば、さまざま な根拠を前提に知識が真理として主張されてるのです。知識の前提は固定化されてい ません。瞬間瞬間書き換えられています。根拠(前提)のない知識(真理の主張)はありえませんが、このように、知識はその 根拠(前提)を(信仰のように)絶対化・固定化しているのではなく、新しい経験 データが手に入るまでの、現時点における知覚体験のデータのことであり、それは 「とりあえず」という性質をもったものです。
日々、古い前提は新しい前提に取って代わられ、それにしたがってあたらしい知識が 増します。知識は知覚経験のデータがその根拠としてあり、知識の主張はそれを根拠 になされます。
プータンwrote:
佐倉さんが「前提」という言葉を使っているものを、プータンは前提とは言ってませ ん。そのように瞬間瞬間書き換えられているものはあくまで「知識」です。繰り返し ますが、前提とは「知識の自己批判能力がこれ以上は疑えない(検証出来ない)とい う限界点」、「私達が(意識的に或いは無意識に)「思考をストップさせている」 点」です。
佐倉さんwrote:
聖書が神の言葉でない、というのはわたしの研究の結論であって、前提ではありませ ん。前提1 神は全知全能であり、神の言葉はすべて真理である。(神の定義より) 前提2 聖書は間違っている。(「聖書の間違い」より) 結論 それゆえ、聖書は神の言葉ではない。(前提1と前提2より)したがって、わたしの結論を批判するためには、前提1か前提2のどちらかがまち がっていることを示す必要があります。
プータンwrote:
確かに「前提」についての考え方の違い故に、この問題に絞った方がよいのかも知れ ません。ただその議論に進むために教えていただきたいことがあります。
佐倉さんの前提1の根拠は何ですか?どのように検証されましたか?それは信仰では ないのですか? これは前提1の「神」が何のソースに基づく「神」なのかという問 いも含みます。聖書でしょうか。それとも御自身の「こんな神だったらいいなあ」と いう「動機」に基づくイメージ?
繰り返しますが、プータンの主張は以下のようなものです。
前提1 聖書は誤りなき神のことばである。 前提2 聖書には間違っているように見える箇所がある。 結論 ならばその間違いには前提1と矛盾しない形で何らかの説明がつけられる。
結論は当然前提1を覆せないからです。だって「前提」としたんですから。 筋が通っていると思うのですが。 そしてプータンの前提1は佐倉さんが「思い込み」とおっしゃる「信仰」です。
おたより、ありがとうございました。
99年2月28日
(1)「コップ(もの)にしろ、自分にしろ、本当に在るのかどうか悩んだ哲学者達はようけおります・・・」
わたしの批判は、もちろん、ロック(『人間知性論』)、バークリィ(『人知原理論』)、デカルト(『方法序説』)に対する批判です。日本の学者たちは、長い間、彼らの哲学をありがたがって、彼らのように疑問を呈することなく、ものがそこにあることを単純に認める立場を、「素朴実在論」などといって、揶揄してきたのでした。
しかし、わたしたちは、はたして、彼らの疑問が本当に意味のある疑問だったのか、問うて見るべきです。たとえば、デカルトは「自分が本当に存在しているかどうか疑わしいが、疑っているかぎり、疑っている自分が存在していることは確かである」などと、もっともらしく、書いてはいますが、彼がそういう結論を出すためには、「一般に、何かがなされているとき、それをなしている主体が存在している」、という暗黙の前提を論理的に必要としています。
前提1 一般に、何かがなされているとき、それをなしている主体が存在している。(暗黙の前提) 前提2 わたしは、疑っている。 結論 疑っている主体(わたし)は存在している。彼は前提2からだけ彼の結論が導出できる(「我思う、ゆえに我在り」)、とあやまって思い込んでいたのです。彼は、前提1となっている一般論を自覚していなかったのです。彼がそれを自覚していないのは、それが、あまりにも彼にとって、当然のことだったからでしょう。では、なぜ、デカルトはそのような一般論を、当然のこととして、もつことができたのでしょうか。それは、彼が、そのような具体例をたくさん知っていたからに違いありません。パンを食べているとき、そのパンを食べている人がいる。歌っているとき、その歌を歌っている人がいる。小便をしているとき、その小便をしている人がいる。ものを考えているとき、それを考えている人がいる。・・・・ゆえに、一般に、あるものが何かをしているとき、それをしている何かがある。
すなわち、数多くの単純な日常体験が、「一般に、何かがなされているとき、それをなしている主体が存在している」という一般論をデカルトの中に作り上げ、彼は、その暗黙の前提から、「わたしは存在している」という結論を導きだしたに過ぎません。しかし、その暗黙の前提には、自分や他人の存在を疑うことのない彼の日常の知覚体験があるのです。デカルトは自分の前提(はじめから自分の存在を疑っていなかったこと)に無自覚な素朴な哲学者でした。
(2)前提と知識
佐倉さんが「前提」という言葉を使っているものを、プータンは前提とは言ってません。そのように瞬間瞬間書き換えられているものはあくまで「知識」です。繰り返しますが、前提とは「知識の自己批判能力がこれ以上は疑えない(検証出来ない)という限界点」、「私達が(意識的に或いは無意識に)「思考をストップさせている」点」です。知識と前提とは必ずしも別々のものではありません。一つの知識は他の知識の前提になるからです。このため、前提の限界は固定化(ストップ)しません。知識の限界が、わたしたちが瞬時得るところの新しい知覚体験や新しい推論によって、瞬時変化しているからです。
信仰においては、発展がないために、前提や思考をストップせざるを得ないのでしょうが。
(3)「前提1 神は全知全能であり、神の言葉はすべて真理である。(神の定義より)」
佐倉さんの前提1の根拠は何ですか?どのように検証されましたか?それは信仰ではないのですか?根拠は、カッコの中で述べているように、神の定義によるのです。定義とは何でしょうか。辞典の編集者はどのようにして言葉の定義を確定するのでしょうか。安い辞典は別の辞典から盗んでくるのでしょうが、オリジナルの辞典にはそれが盗んでくるところのものがありません。どのようにして、ことばの定義は確定されるのでしょうか。言語学者の S.I. Hayakawa の「How Dictionaries are Made(いかにして辞典は作られるか)」という小論文によれば、辞典の編集者は、一つ一つの言葉が使われている文を、たくさんカードのようなものにしてあつめ、それらの中から、その言葉がそれぞれの文脈のなかでどのように使われているかを調べることによって、その意味を確定するそうです。
わたしが、ここで、「神の定義より」と言っているのも、それにあたります。すなわち、「X」という言葉が、聖書やキリスト教文献のなかで、いかに使われているかを見ることによって、「X」という言葉の定義を決定することができます。「神」ということばが、聖書やキリスト教文献のなかで、いかに使われているかを見れば、「神」が正義と愛の人格をもっており、全知全能であり、世界を創造した主であり、その語る言葉は真理である、ということは、すぐわかります。
「神は全知全能であり、神の言葉はすべて真理である」というのは、クリスチャンにとっては信仰でしょう。わたしにとっては、「神」という言葉の定義から導出された仮説に過ぎません。
つまり、わたしの主張を言い換えれば、
(ア)神は全知全能であり、神の言葉はすべて真理である。(クリスチャンの信仰) (イ)聖書は神の言葉である。(クリスチャンの信仰)という二つの信仰を同時にもつのは自己矛盾に陥っている、なぜなら、聖書は間違っているから(事実)、ということになります。自己矛盾しているのですから、このどちらかを捨てねばなりません。どちらがクリスチャンにとってより大事(捨てたくない方)であるか、といえば、(ア)のほうであろう、と思いますから、それで、(ア)を前提にして(イ)を結論にしたにすぎません。これを逆にしても、論理的には同じことです。
前提1 聖書は神の言葉である。(信仰による) 前提2 聖書は間違っている。(「聖書の間違い」より) 結論1 神の言葉には間違いがあるので、神は全知全能ではない。(前提1と前提2による)どちらにしても、(ア)(イ)の両方は論理的に同時に成立しない、なぜなら、聖書は間違っているから(事実)、ということになります。それが、わたしの主張です。
(4)前提だから覆せない?
繰り返しますが、プータンの主張は以下のようなものです。前提というのは主張の根拠となっているものを指すのであって、前提だから覆せないなどということはありません。人はしばしば、帰謬法とよばれる推論を使います。それは、ある主張が間違っていることを証明するために、その主張をわざと前提にして推論する方法です。たとえば、環境保護の問題を論ずるときは、しばしば、この帰謬法が使われます。すなわち、まず、「ある開発を認めること」を前提にする。そこから、どのような環境変化が生じるかを論じ、その変化が住民にとって受け入れがたいものであることを結論します。そうすることによって、はじめに前提にされた「開発を認めること」を覆すのです。このような帰謬法による推論では、つねに、覆すためにその前提が設けられます。したがって、前提だから覆せない、というのはあきらかに間違っています。前提1 聖書は誤りなき神のことばである。 前提2 聖書には間違っているように見える箇所がある。 結論 ならばその間違いには前提1と矛盾しない形で何らかの説明がつけられる。結論は当然前提1を覆せないからです。だって「前提」としたんですから。
実際、もうすでに、「聖書の間違い」によって、「聖書は誤りなき神のことばである」という前提(信仰)は覆されたのです。
前提 聖書は神の言葉である。(信仰) 事実 聖書は間違っている。(「聖書の間違い」より) 結論1 しかし、そうすると、神の言葉は間違っている、という不都合な結論が生じる。(前提と事実による) 結論2 ゆえに、このような結論をもたらす「聖書を神の言葉である」とう前提は否定されねばならない。(前提と結論1より)すなわち、「聖書は神の言葉である」という前提を立てると、「神自身が間違っている」というクリスチャンにとっては受け入れがたい不都合な結論が導出されるので、クリスチャンは「聖書は神の言葉である」という前提を捨てねばならない、という結論になったのです。それは、神を否定するわけでも、キリスト教を否定するわけでも、聖書の価値を否定するわけでもありません。ただ、「聖書は誤りのない神の言葉である」という、人間が作り上げた根拠のないドグマが誤っていたことを示しているだけです。人間は不完全なもので、しばしば間違います。そのような人間が書いた書物が不完全であることがわかった、というあたりまえの結論が出たに過ぎません。
キリスト教の歴史を振り返れば、教会が絶対化された時代(カトリック時代)がありました。そして、教会の権威を相対化するために用いられた聖書を絶対化する時代(プロテスタント時代)がそのあと続きました。しかし、教会の権威が人間の権威であったように、聖書の権威も人間の権威です。そのことに気づき始めた多くのクリスチャンは、「聖書は誤りのない神の言葉である」というドグマを捨てています。
聖書の記事は絶対確かというものでは全然ないのである。どちらかといえば批判的研究の方がより確かなのである。このように不確かなものの上に救済を立てようというのだろうか。(中略)ところが批判的検討に対して、正統的キリスト教は「それは人間主義であって、神への従順、神からの出発ではない」という。しかしよく問いただしてみると、「神からの出発」とは、何のことはない、ようするに「使徒の言葉への従順」、「使徒の認識からの出発」なのである。これがどうして人間からの出発ではないのか、人間神格化ではないのか。「聖書は誤りのない神の言葉である」というドグマを捨てることは、信仰を、人間の経営する組織の上にでもなく、人間の書いた書物の上にでもなく、神だけの上に置くという、もともと聖書がわたしたちに語りかけている、「神だけを神とせよ」という根本的なメッセージに戻っていることを示しているのではないでしょうか。(八木誠一、『キリスト教は信じうるか』)