(1)

佐倉さんwrote:

わたしは、「ものがそこに存在していることを前提」にするためには、まず、日常生活や自然科学の知覚体験が先に前提にされなければ不可能である、と逆のことを主張したのです。

これらのことから、「ものがそこに存在していることを前提」にすることができる(存在という言葉を使用できる)ためには、日常生活や自然科学の知覚体験が、すでに、前提にされていなければならないことがわかります。

プータン:

つまり佐倉さんは日常生活や自然科学の知覚体験を前提にされているわけです。それについては疑われないのですか?

プータンは「聖書が誤りなき神のことば」であることを前提しています。そして前にも書きましたが、それを前提にして疑わなければ、聖書は「神のことば」ゆえに(人間の)論理で考える時に今の段階で不都合なところがあっても、しょうがないということになります。信仰って便利ですね…と言われても、便利云々ではなく、筋が通っていると思います。

私が言いたかったことはそういうことです。

ついでに言えばどの宗教でも「日常生活や自然科学の(宗教的)知覚体験」はあります。(笑)


(2)

佐倉さんwrote:

「地球が丸い」という意見には、それを検証するための数多くの客観的な事実があります。「神が存在する」「イエスはキリストである」「イエスの血によって罪が許される」などという意見には、それを検証するための客観的な事実が皆無です。ゼロです。したがって、それらはただそれを信じたい個人の思い込み(すなわち信仰)によってのみ成立しているものです。
プータン:

聖徳太子は「冠位十二階」制度を採用したと歴史で習いましたが本当なんでしょうか。誰も彼を見たことはないし、彼の時代に誰かが嘘書いたのかも知れません。そういう意味では検証できません。でも思い込み(信仰)だとは思いません。「地球が丸い」よりも相応しい対比だとは思われませんか?


(1)知覚体験とその報告

佐倉さんは日常生活や自然科学の知覚体験を前提にされているわけです。それについては疑われないのですか?
知覚体験を疑うことは誰にもできません。知覚体験は出来事ですから、疑いの対象にも信仰の対象にもなりません。出来事はたんなる事実であって、「間違っている」とか「ただしい」というような言葉の対象ではありません。わたしたちの疑いの対象になるのは人間の主張だけです。知覚体験に関して言えば、わたしたちが疑うことができるのは、知覚体験そのものではなく、知覚体験に関する自分や他人の報告です。


(2)歴史と信仰

聖徳太子は「冠位十二階」制度を採用したと歴史で習いましたが本当なんでしょうか・・・
聖徳太子や「冠位十二階」などについて書かれているのは、日本書紀や古事記ですが、それらは人間の報告です。したがって、歴史学では、それが絶対に正しいと前提にしているわけでもなく、また逆に、すべてがウソだと前提にしているわけでもありません。考古学的発見(富本銭など)や、中国大陸や朝鮮半島の文献との比較研究、その他によって、ほぼ確実に正しいと判断されている部分から、ほぼ確実に間違っていると判断されている部分、また、まったく真実であるかどうか判断できない部分に至るまで、それぞれの根拠にしたがって、その知識の確実性には程度があります。歴史学は、単なる思い込みが作り出した信仰ではなく、考古学的発見や比較研究などの根拠の上に成立している知識だからです。

また、歴史知識には、のちに発見される資料や新しい技術によって、いままで、正しいと判断されていた前提(根拠)が間違っていると判断されたりすることがあります。それは、知識は自己批判能力(疑う能力)を内に含んでおり、それゆえ、過去の誤謬の訂正をもたらしたり、より包括的な知識をもたらすことができるからです。だから、知識は発展することができ、科学や技術の発展はその事実を示しています。

それにくらべて、聖書信仰では、確実性の程度がまったく無視され、一律に「聖書はすべて正しい」と主張します。また、聖書信仰は、自己批判能力(疑う能力)をはじめから拒否して成立しているものです。そこにあるのは、ただ、「何と言われても、聖書はすべて正しいのだ」という確執のみです。


(3)知識と信仰の違い

知識には、その根拠にしたがって、確実性の程度の違いがあります。聖書信仰には、根拠が皆無だから、確実性の程度の違いがありません。のっぺらぼうな盲目信仰です。知識には、自己の前提の間違いを訂正する自己批判能力(疑う能力)があります。信仰には、自己批判能力(疑う能力)が完全に欠乏している(だから「信仰」というわけですが)ので、自己の前提を覆して発展することがありません(ひたすら、自分の信じていることが正しいことを祈るだけでしょう)。

信仰には根拠が皆無である(「はじめから前提にしている」)ために、一生けんめい「おまえもではないか」、と知識を信仰のレベルまで引きずり降ろそうとされているのでしょうが、信仰と知識は、このように、まったく別物です。