いつも丁寧な対応に感謝します。

佐倉さんの御指摘の通り、内村の思想は、人はイエスによってのみ救われるという事だと思います。最終的な神の救いは、人の行いや信仰にはよらないと言う事です。なぜらな、人類のすべての神に対する罪の刑罰は、イエスの十字架によってなされたからです。今すぐでないのが残念ですが英文&訳文の1922年3月の「完全と謙遜」を読むとわかる気がします。

私は、芸術や経済のことはよくわかりませんが、政治家などの人の上に立つ人達のスキャンダルがなくならない事や犯罪の低年齢化などは、神への畏敬の念がどんどん薄れているのが原因だと思います。だから内村の人も国家もイエスを必要とすると言うのは全然的外れだとは思わないのですが。

信仰すらも神の賜物に関してパウロも言っています。聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。1コリ12:3と。

きわめて重要な疑問は、佐倉さんが信仰は思いこみだと思うほうがよいと考えるならそれでよいと思います。それが佐倉さんのある意味で信仰なのですから。

佐倉さんがいろんな信仰の人と対話できることを、うらやましく思います。これからもがんばってください。

山本孝寿


(1)信仰と犯罪

わたしはもう長い間米国に住んでいますので、神への信仰が指導者のスキャンダルや青少年の犯罪に対して有効であることをとても認めるわけにはいきません。「クリスチャンが圧倒的に多いアメリカで、どうしてクリスチャンの少ない日本より、犯罪が圧倒的に多いのでしょうか」という問いは、山本さんとおなじような考えを持つ米国在住の日本人クリスチャンを悩ます問いでもあります。

個人的なことになりますが、まだ高校生の頃、わたしはある本の中で、「わたしは人を傷つけることだけは避けて生きたい」という著者の言葉に深く同感したことを思い出します。わたしは当時無神論者でした。

わたしはのちにクリスチャンとなり、十数年の年月の後、信仰を捨てることになりました。はたして、信仰を持っていたときよりも信仰を捨てたあとの方が、わたしは道徳的悪い人間になったのでしょうか。わたしの棄教の経験によれば、「神はいないのだから犯罪を犯しても誰にも見つからなければそれでよい」というような考え方にはまったくなりません。棄教によって自分に何か変わったことが起きたとすれば、自分自身に対してもっと正直になることができるようになったことだけだと思います。信じることのできないことを、自己の救いのために、まるで確信しているかのような振る舞いをしなくてもよくなったからです。おそらくすべての棄教者の経験もそうだろうと思います。

したがって、わたしは、信仰と犯罪との関係について、道徳的低下は「神への畏敬の念がどんどん薄れているのが原因だ」という山本さんのご意見に同意することはできません。わたしは、むしろ、道徳や倫理は神への信仰の上に築くべきではないと思っています。なぜなら、神とは客観的に証明できる実体ではないために、神への信仰を持つことのできない人びとの心の中では、神への信仰の上に築かれた道徳観念はいっきに崩壊してしまい、道徳的無政府状態が生まれてしまうからです。アメリカ社会における今日の犯罪問題も、道徳や倫理を神への信仰の上に築いてきた歴史に原因があるとわたしは見ています。

さらに、キリスト教信仰に限って言えば、日本にキリスト教が伝えられて以来450年が経ちますが、日本は意識的キリスト教抜きの他文明の取り入れに努力してきました。そして、信仰の自由が許されている現在でも、日本におけるキリスト教者の人口はまだ1%ほどにすぎません。このようにして築かれた非キリスト教的な日本の社会が、世界の他の社会に比べて、とくべつによい社会であるとはもちろん思いませんが、それほどわるい社会であるとも思われません。日本の社会(だけではありませんが)の存在は「キリスト教が人間の社会に必ずしも必要ではないこと」を実証した、と言ってよいと思います。

したがって、

およそよきものは主イエス・キリストより来る。愛と望みと信とはもちろん、智識も、美術も、労働も、労働の結果たる真正の富も、すべて主イエス・キリストより来る。今や彼によらずして人も国家も永久に善くかつ強くなることは出来ない。(明治36年)
という内村の考え方に同意するわけにはいきません。


(2)「信仰すらも神の賜物に関してパウロも言っています

そうでした。しかし、信仰が神の賜物であるという考えは、人が救われるかどうかは神が一方的に決めるもの、という考えに行き着くのではないでしょうか。