こちらアッシリア学を専攻している大学院生です。
確かに、『ギルガメシュ叙事詩』第11書板にある洪水の記述は、 「創世記」のノアの洪水のお話に似ているため、 『ギルガメシュ叙事詩』が発見された当時は、 ノアの洪水の話が『ギルガメシュ叙事詩』からの直接の引用であると 言われました。
しかし、厳密に分析してみると、両者の間には多くの差異もあること、 洪水伝承は他のメソポタミアの(広義の)文学文書において散見されること などから、現在では、直接の引用ではなく、共通の「伝承」を 共有しているのであると言われています。
もっとも、「伝承を共有する」ということが、 具体的にどのようなことであるのかは、難しいところです。
そうですね。全然似てないところもたくさんあります。なんといっても、神理解がもっとも違います。そのために、聖書では、洪水が神の気まぐれの結果ではなく、きわめて倫理的意味の濃厚な、人類に対する神の意図的な裁きの意味を持つようになっているようです。これはヘブライびとの貢献だと思います。
しかし、それにもかかわらず、似ているところがすごいので、やはり、ギルガメッシュの物語(あるいはその原形)が、聖書の洪水物語の原形となっているように思えます。たとえば、
五日目と六日目と、舟はニシル山の頂にとどまり、流されなかった。七日目が来たとき、わたしは鳩を放した。鳩は飛んでいったが、すぐ戻ってきた。止まるところがなかったからである。などのようなところを読んでいると、そう思います。
なお、「ポイラ村さんへ」「洪水神話が盗作であるとは断定できない」なども参照してください。