(これは「11月20日」の続きです)
(1)悪霊の除霊(?)が必要なのにすこぶる健康体・・・?
『二つめの初対面物語(第十七章)において、サウルがダビデのことを知らなかった のは、最初の初対面のことを忘れていた、などというのはあきらかに無理な憶測で す。第一に、ダビデはサウルに「大層気に入」られて、竪琴の奏者として、また、 「王の武器を持つ者」として直接、サウルの「傍らで」仕える身だったからです。ま た、サウルの頭がおかしくなっていたからだろう、というのも無理な憶測です。ダビ デを知らなかったのは、サウルだけでなく、軍の司令官アブネルも「王の武器を持つ 者」であるはずのダビデを知らなかったからです。また、ダビデ自身も、サウルには じめて会うような振る舞いをしています。 』
という事ですが、サウルは悪霊によっておびえており、除霊を必要としているにもか かわらず、まったく落ち着いていてすべての事を万全に執り行っていたという事で しょうか。ならば何故に除霊などを必要としたのでしょう?悪霊につかれたのに、精 神に何の影響もなく思考もすこぶる正常とはこれいかに?では「竪琴の上手な者」は 何のために必要だったのでしょう?悪霊につかれても、何の問題も支障もないなら除 霊など全く必要ありませんし、そんな健康状態ならば悪霊につかれたとは言いませ ん。まして、竪琴をひくと「サウルは元気を回復した」という記述はどういう事なの か理解できません。更にサムエル18章には悪霊によって狂いわめくサウルがダビ デを殺そうとまでしているのです。これでも尚、サウルが平静であったとはどういう 理解をすればいいのでしょう?明らかに錯乱状態にあった事の証拠ではないですか。 私の友人に悪霊付きではありませんが、軽い鬱病にかかっている人がいます。その人 は病院で診察を受けますが、ひどい時には朝飯に何を食べたかさえ覚えていない事が あります。このように精神状態がその人の思考に影響を及ぼす事は明らかな事実で す。ならば佐倉氏の言われるように、悪霊につかれたが全然問題なし、OK!と考える 方が無理な憶測なのです。また「傍らに仕えて」という状態はサウルの目の前で竪琴 をひき、そしてサウルに並んで「道具持ち」をしていたのでしょうか?なる程それな らば政治顧問が来ても、司令官が来てもサウルの目の前にいるダビデには気が付きま すね。すっげー相談の邪魔になるのできっと忘れられない存在になった事でしょう。 アブネル達はきっと「なんだ、この邪魔なガキは!」は思った事でしょう。大体「道 具持ち」とはそもそも戦場において王の武器を持つために必要なのであって王の親衛 隊ではありません。司令官のアブネルと一緒に行動しているはずが無いでしょう。ま たダビデはダビデの故にサウルに「大層気にいられた」のではなく、竪琴をひいて悪 霊を追い出す事ができたから気にいられたのです。ですから、サウルにとってダビデ は「ダビデ」ではなく、「竪琴ひき」という印象だった事が推測できます。ちなみに 「ダビデ自身も、サウルにはじめて会うような振る舞いをしています。 」とはどこ の事でしょうか?
(2)エルサレムとシオンの要害
『エブス人が「ダビデが町に入ることはできないと思」っているのは、歴史的にエル サレムが難攻不落の要塞であったことを意味しています。エブス人はダビデに攻撃さ れるまで、すくなくとも250年間ほどエルサレムの住人であったと考えられていま すから、エブス人の自信もうなずけます。 』
歴史的にエルサレムが難攻不落なのではなく、「シオンの要害が難攻不落」だったの です。それは佐倉氏が引用されている
『王とその兵はエルサレムに向かい、その地の住民のエブス人を攻めようとした。エ ブス人はダビデが町に入ることはできないと思い、ダビデに言った。「おまえはここ に入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易 だ。」しかしダビデはシオンの要塞を陥れた。(サムエル記下 5:6-7)』
においてもはっきり記述されているではないですか。ダビデはエルサレムに向かいま したが占領したのはシオンの要害と記述されています。この記述だけが正しいのなら ば、同じ文章中でエルサレムと記述しといて、後半でシオンの要害と書き換えている のは何 故でしょうか?わずか2,3行の文章の中で同じ場所をさして2通りの言い方をする というのはいかにもおかしいではないですか。でなければ、明らかに「エルサレム」 と 「シオンの要害」は同じ意味ではない事を示しています。エルサレムとはシオンの要 害を含んでいる「地域」という意味で使用されており、エルサレムの地域の中にエブ ス人の砦である「シオンの要害」があった事をこの記述は示しているのです。そして ダビデが占領したのはシオンの要害であり、これによってエルサレムの全域をイスラ エルの領地とした事になるのです。さて次に
『しかし、士師記1章8節の記述のほうが間違っているのです。なぜなら、エルサレ ムはかれらに征服されることはなかったからです。そのことは、この士師記を読み進 んでいくとわかります。第19章に、あるレビ人の物語が載っています。このレビ人 は旅をしていたのですが、「エブスすなわちエルサレム(19:10)」の近くに来たと きに、日が暮れてしまいます。そこで、従者が「あのエブス人の町に向かい、そこに 泊まることにしたらいかがですか」と言うと、かれは
イスラエルの人々ではないこの異国人の町には入るまい。ギバァまで進むことにしよ う。(士師記 19:12) と答えています。つまり、エルサレムはイスラエル人の住んでいるところではなかっ たのです。 』
自分で書かれていて気がつかないのかと思いますが、士師記1章8節でユダ族がエル サレムを攻略した後、21節にはベニヤミン族とエブス人の共生が、さかのぼってヨ シュア記15:63にはユダ族とエブス人の共生が記述されています。また上記の記 述については、エルサレムはイスラエル人とエブス人の共生する町であるが、古来よ りエブス人の土地であり、そこにイスラエル人が入植した形なのだから、イスラエル 人の感覚として『異国人の町』と考えるのは当たり前です。日本が朝鮮半島を侵略占 領しても、そこを朝鮮人の国と呼ぶのと同じ理屈です。まして、放牧ではなく旅をし ている人間が野宿できるわけもなく、かといって敵性民族のたむろしている町の中に 入っていけるわけがありません。前述しましたがエルサレムはシオンの要害を含む一 定の地域ですから、エブス人の要害の中にイスラエル人は住んではいなかったでしょ う。しかし、要害の周辺はイスラエルの占領区域ですから、そうとは言えません。仮 に佐倉氏の主張通りとした場合、エルサレムとシオンの要害との言い分けをしている 事に対してどのような説明をされるのですか?また「うっかり書き分けてしまった」 とでも説明されるのですか?
(3)エルサレムの領主は誰?
『さらにまた、士師記1章8節に従えば、エルサレムを攻撃して占領したのは「ユダ ヤ族」であったとしていますが、同21節によれば、エルサレムを攻めたのは「ベン ヤミン族」であったことになっており、しかも、エルサレムを占領できなかったの で、エルサレムに住んでいるエブス人はそのままにしておいたとしています。これは エルサレムの回りの地域ではベンヤミン族の人々が住んでいたが、自然要塞として丘 の上にあるエルサレムだけはエブス人のものとして残された(「いっしょに住んでい る」)ことを示しています。これはエルサレムが昔から難攻不落の要塞(シオン)と して認められていた歴史的事実とも一致します。』
単純な読み間違です。エルサレムを攻撃したのはユダ族だけでベニヤミン族は攻撃し ていません。21節を読めばわかります。さらにエルサレムを占領できなかったので は なく、シオンの要害を陥落できなかったのです。それはエルサレムから「追い出せな かった」という記述とダビデの要害攻略の記述から分かります。また各記述からエル サレム地域にはユダ族、ベニヤミン族、そしてエブス人が共生していた事がわかりま す。これは、カナン侵攻の際にエルサレムはベニヤミン族の領地に割り当てられまし たが、ユダ族との境界線がエルサレムの南の谷までと定められたからです。また
『これはエルサレムの回りの地域ではベンヤミン族の人々が住んでいたが、自然要塞 として丘の上にあるエルサレムだけはエブス人のものとして残された(「いっしょに 住んでいる」)ことを示しています。』
前述しましたが、エルサレムの回り(近辺)をどのように呼んでいたのでしょう?現 代のように細かく行政区域が線引きされていれば何の問題もありませんが、当時はそ んなものはありません。とすると、ある一つの町とその周辺の地域を一つの名称で表 していたと考えら れます。これは日本の戦国期(に限らず)を例にとれば分かりますが、例えば「大 坂」といった場合には大坂城を中心として周辺地域を指すのですが、こうした呼び方 に照らし合わせるとエルサレムという場合にはシオンの要害とその周辺地域を言った ものと思われます。
(4)ダビデよ・・いつエルサレムに引っ越したんだ・・
ダビデはベツレヘムの出身で父の羊を飼っていました。当然羊を放牧するのですか ら、一定の場所にとどまる事は不可能です。そしてダビデがゴリアテの武具を持ち 帰ったのは自分の天幕であって家ではありません。ダビデは父の家に住んでいるので すから。天幕とは放牧している時の仮住まいのテントの事で、放牧でエルサレム周辺 (当然ながら町の中で放牧できるわけはないので)で野営をしていた天幕に持ち帰っ たのです。だから、ダビデはエルサレムに自分の家を持っていたわけではありません ので、エルサレムの町の中に入る必要は全くありません。
(5)文章読みとり能力に乏しいある現代聖書学者
『士師記1章8節の記述のほうが間違っていることがわかります。だから現代聖書学 者が士師記1章8節を編集的挿話であると主張するのもうなずけます。すなわち、サ ムエル記上17章54節に加えて、士師記1章8節も時代錯誤を犯しているので 。 』
「士師記1章8節の記述のほうが間違っている」というのはここで佐倉氏が主張され ている理由と似た事だと思いますが、この聖書学者は少なくともエルサレムについて の各個の記述を関連させられずに、文章研究でなく機械的文字研究によって間違いを 指摘しているのではないでしょうか。人の書く文章には必ず意味があり、書くための 理由があります。それを無視して、字面だけを研究するから文章の意味を読みとれな いのです。文章とは数学や工学の理論書や数式ではありません。それを書いた人間の 思考を考えずに工学理論のごとく文字を研究するから、このような主張が立てられる のでしょう。
以上、応答ありがとうございました。
(1)二つ目の初対面:ナレーターの証言
二つ目の初対面の物語において、その日にサウルがダビデを召し抱えることを決定した、と語っているこの話者は、物語に出てくる登場人物ではなく、ナレーター、すなわちこの物語を書いた著者自身、です。
ダビデがあのペリシテ人を討ち取って戻ってくると、アブネルは彼を連れてサウルの前に出た。サウルは言った。「少年よ、お前は誰の息子か。」「王様のしもべ、ベツレヘムのエッサイの息子です」とダビデは答えた。・・・サウルはその日、ダビデを召し抱え、父の家に帰ることを許さなかった。ところが、わたしたちに伝わってきた聖書によれば、これ以前に、第十六章において、サウルはダビデをすでに召し抱えているのです。(サムエル記 上 17:57-18:2)
ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。王はダビデが大層気に入り、王の武器を持つ者に取り立てた。サウルはエッサイに言い送った。「ダビデをわたしに仕えさせるように。彼は、わたしの心に適った。」それだけではなく、二つ目の初対面物語を書いたこの著者(ナレーター)は、ダビデの物語を書くにあたって、ダビデは誰であるかを読者に対して紹介する文章で書き始めます。(サムエル記 上 16:21-16:22)
ダビデは、ユダのベツレヘム出身のエフラタ人で、名をエッサイという人の息子であった。エッサイには八人の息子があった。サウルの治世に、彼は人びとの間の長老であった・・・。これは、あきらかに、ナレーターが読者に対して語っているダビデの紹介です。ところが、わたしたちに伝わってきた聖書によれば、これ以前に、第十六章において、ダビデはすでに物語に登場しており、彼がベツレヘムの出身であるとか、エッサイの息子であるとか、すでに、書かれているので、わたしたち読者は、二人目のナレーターのダビデ紹介文を読む前に、ダビデについてもう知っているのです。(サムエル記 上 17:57-18:2)
つまり、サウルやダビデなどの物語の中の登場人物だけではなく、物語をを書いたナレーター自身が、二つ目の物語をダビデとサウルの初対面の物語をして書いていることがわかります。そのために、異常な精神状態のゆえに「傍に使えていた」ダビデをダビデと認知できなかったのだ、などと言い訳する空想的強弁の根拠が壊滅します。ナレーターも精神異常となって間違って書いてしまった、などという主張は、「聖書はすべて正しい」と信じる聖書信仰者にとっては、できないだろうからです。
(2)時代錯誤:総合的説得力
これは、上記の問題とは別個の問題ですが、サムエル記の数々の混乱を示すもうひとつの例として、わたしが(おまけとして)取り上げたものです。すなわち、
ダビデはあのペリシテ人の首を取ってエルサレムに持ち帰り、その武具は自分の天幕に置いた。という記述は時代錯誤である、というわたしの主張です。(サムエル記 上 17:54)
(ア)根拠
なぜ、この記述が時代錯誤かというと、エルサレムはサウル王当時はエブス人の町であり、この町がイスラエル人のものになるのは、それよるずっと後で、ダビデが王となって「七年六ヶ月の間ヘブロン」を首都として統治した後(サムエル記下 5:4-5)のことだったと、聖書が記しているからです。
[ダビデ]王とその兵はエルサレムに向かい、その地の住民のエブス人を攻めようとした。エブス人はダビデが町に入ることはできないと思い、ダビデに言った。「おまえはここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ。」しかしダビデはシオンの要塞を陥れた。これに対して、エルサレムにはすでにイスラエル人がいた、という反論をされているわけですが、サウルの時代にイスラエル人がエルサレムに住んでいたと考えることには、いくつかの問題があります。(サムエル記下 5:6-7)
(イ)「シオン」はエルサレムの別名
「シオン」には「要塞」という意味がありますが、この「シオン」はしばしばエルサレムの別名として使用されています。エルサレムは丘の上の城壁に囲まれた町だったからです。そのため、「エルサレム・・・、シオン・・・」あるいは「シオン・・・エルサレム・・・」というペアは定型句と言ってよいほど、聖書ではしばしば使われる、繰り返しを避ける文学的表現です。「大阪・・・、水の都」あるいは「水の都・・・、大阪・・・」といった表現と同じです。たとえば、
高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。あきらかに、シオン=エルサレムです。ここでも、その例外ではありません。
力を振るって声をあげよ 良い知らせをエルサレムに伝える者よ。(イザヤ書 40:9a)
主が言われたように、
シオンの山、エルサレムには逃れ場があ[る](ヨエル書 3:5b)
[ダビデ]王とその兵はエルサレムに向かい、・・・シオンの要塞[すなわちエルサレム]を陥れた。つまり、「彼は大阪に行って、その水の都で成功した」、という形の表現です。ここではとくに、「エルサレム、シオンの要塞」という表現を使うことによって、エルサレムが攻略するのに困難な要塞都市であることを強調することによって、それを簡単に攻略したダビデ軍を讚えるための優れた文学的表現となっているのです。また、つぎのように、
[ダビデ]王とその兵はエルサレムに向かい、その地の住民のエブス人を攻めようとした。という表現でわかるように、エルサレムとはエブス人を住民とする「地」であると表現されています。さらにまた、
エブス人はダビデが町に入ることはできないと思[った]・・・しかしダビデはシオンの要塞を陥れた。とあるように、エブス人がイスラエルの軍は入ることができないであろうと思っていた彼らの「町」とは、すなわち、ダビデ軍が陥落した「シオンの要塞」であると表現されています。あきらかに、ここでは、
エルサレム=エブス人の住む地=エブス人の町=シオンの要塞であり、どこにも、イスラエル人と仲良く一緒に住んでいるエブス人を攻めたというようなことも、エルサレムの一地域に住んでいたエブス人を攻めた、というようなことも書いてありません。むしろ、ここに見られるような、短い表現ながらも、自信過剰なエブス人とそれを攻め落とそうとするダビデの軍との間にある緊張感を示す優れた文学的表現は、エルサレムにイスラエル人とエブス人が仲良く一緒に住んでいたという想定をしてしまうと、色あせてしまいます。とくに、「エブス人はダビデが町に入ることはできないと思って」という表現は、イスラエル人とエブス人が一緒に仲良く混ざり合って住んでいたことを明白に否定しています。
(ウ)エルサレムにはイスラエル人居住地域はなかった
さて、ダビデのエルサレム(エブス人の町)攻略の記述(サムエル記下 5:6-7)からわかるように、イスラエル人とエブス人が一緒に仲良く混ざり合って住んでいたことは考えられません。それでは、エルサレムの中に、エブス人の居住地域(城壁の中)とイスラエル人の居住地域(城壁の外)とが別々にあったのでしょうか。それも、すでに指摘した、つぎのような記述によって、否定されています。
[彼らは]立ち上がって出発し、エブスすなわちエルサレムを目の前にするところまで来た。彼らがエブスの近くに来たとき、日は大きく傾いていた。若者は主人に、「あのエブス人の町に向かい、そこに泊まることにしたらいかがですか」と言ったが、主人は、「イスラエルの人びとでないこの異国人の町に入るまい。ギブァまで進むことにしよう」と答えた。この記述は、エルサレムの中に、エブス人の居住地域とは別のイスラエル人の居住地域があることを否定します。もし、イスラエル人の居住地域があれば、そこに泊まることにはなんの問題もないからです。(士師記 19:10b-12)
(エ)エルサレム、ベンヤミン、ユダ
士師記1章(エブス人はベニヤミン族の人びとといっしょに住んでいる)やヨシュア記15章(エブス人はユダ族の人びとといっしょに住んでいる)の意味は、エルサレムの町とベニヤミン族地域とユダ族地域の位置をみれば、よりわかりやすいかもしれません。丘の上の町エルサレム(シオンの山)は、たとえていえば、日本海と太平洋に囲まれて浮かんでいる日本列島のようなものです。
実際は、エルサレムの町の大きさに比べて、ベニヤミン族地域や(とくに)ユダ族地域はもっと大きいのですが、簡略すれば、このようなものです。ベニヤミン族やユダ族がエルサレムに住むエブス人を追いださず、いっしょに住むようになった、という記述の意味は、彼らが、もしかしたら攻撃ぐらいは試みたかもしれないが、結果的にはエルサレムのエブス人たちをそのままにしておいたので、ベニヤミン族とユダ族は、エルサレムに住むエブス人と共存することになったと解するのが、(ア)や(ウ)の事情を考えてみるとき、もっとも自然な解釈だと思います。1950年に勃発した朝鮮戦争のとき、北朝鮮は南(韓国)を攻めたが、結果的にはそれを攻略して共産化することができず、南は結局そのままにして、南北が共存関係を続けることになったようなものです。┌─────────────────────────────────────────────┐ │ │ │ │ │ │ │ │ │ ベニヤミン族地域 │ │ │ │ │ │ ギブァ │ │ │ │ ┌─────┐ │ ├──────────────────┤エルサレム├────────────────────┤ │ └─────┘ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ ユダ族地域 ベツレヘム │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ ヘブロン(ダビデの最初の首都) │ └─────────────────────────────────────────────┘
士師記1章の記述もヨシュア記15章の記述もダビデのエルサレム攻略よりもずっと後に書かれたものです。「エブス人は・・・今日までエルサレムに住み続けている」と書かれているように、これを書いた者にとっては、エブス人がイスラエル住んでいるというのは彼らの目の前の現実です。したがって、これらの記述は、彼らがイスラエルの歴史を書くにあたって、士師の時代やヨシュアの時代にイスラエル人がカナンに武力侵入したという古代の英雄伝説と、その伝説と一見矛盾する現実、つまりエブス人たちが「今も」エルサレムに住んでいるという彼らの目の前の現実 --- この一見矛盾した二つの事柄を調和説明するためにうまれた編集的加筆であると言えるでしょう。
(オ)ダビデが、ゴリアトの首をもって、戻ってきた場所
ダビデが「羊を放牧する・・・自分の天幕」にゴリアトの武具や(ゴリアトの首)をもって帰ったことについておもしろい作文を紹介しておられますが、ダビデがゴリアトにの首をもって「戻って」いった所は、聖書の記述によれば、事の重大さから考えれば当然のことですが、サウル王のいる所でした。
ダビデがあのペリシテ人(ゴリアト)を討ち取って戻ってくると、アブネルは彼を連れてサウルの前に出た。ダビデはあのペリシテ人の首を手に持っていた。サウルは言った。「少年よ、お前は誰の息子か。」「王様のしもべ、ベツレヘムのエッサイの息子です」とダビデは答えた。 (サムエル記上 17:55-18:2)ダビデがゴリアトとの闘いのあとサウルのいる場所に「戻ってくる」のは、当然のことでした。なぜなら、ダビデはベツレヘムからやってきましたが、そのまま直接ゴリアトと闘いを挑んだのではなく、まず、サウル王のところへ行って闘いの許可を得て、それから、ゴリアトに闘いを挑んだからです。
[ゴリアトに挑戦したい]ダビデの言ったことを聞いて、サウルに告げる者があったので、サウルはダビデを召し寄せた。ダビデはサウルに言った。「あの男のことで、だれも気落ちしてはなりません。しもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」・・・サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前とともにおられるように。」サウルは、ダビデに自分の装束を着せた。彼の頭に青銅の兜をのせ、身にはよろいを着けさせた・・・。サウルのいたところが、彼のパレスだったかそれとも臨時の陣営だったのか、わかりませんが、もし、かれのパレスだったとすると、それは、サウル王がその軍事的政治的中心としていた町、ギブァ(サムエル上 14:16;15:34)になります。このギブァは、エルサレムからわずか数キロ北にある町(現在のテレルフル)で、サウル王のパレス遺跡が最近発掘されています。このギブァは、上記であげた旅人の記述の中で、エブス人の町であるエルサレムには宿泊することを避け、「ギブァまで進むことにしよう」と言った、あのギブァの町です。(サムエル記上 17:31-38)
(3)まとめ
(ア)ダビデとサウルの出会いに関して、サムエル記には二つの矛盾する物語がある。
(イ)サムエル記は時代錯誤を犯している。