お返事(11月19日)読ませて頂きました。

いまいち佐倉さんの考えが理解できません。しつこく質問しますが忍耐をもって読んでください。


(1)神についての知識

要するに私が言いたいのは、どの程度の知識があれば神を知ったことになるのか?ということです。まあ佐倉さんは聖書自体を否定されているので聖書をよく理解していても”神についての知識を得た”ということにならないのでしょうが。私に言わせればへたなクリスチャンより佐倉さんの方が聖書をよく知っていますよ。ただ、一番大切な知識は”イエスの十字架上の死は自分の罪の身代わりであった”いうことだけで、それ以外は後回しでも問題ありません。従って、頭が良くなくても一番大切な神についての知識は知ることができるのです。それ以外の知識の度合いはその人の能力、努力によって差がでてくると思います。それから、”わたしたちは本当に神について語っているのか、それとも、神についてわたしたちが心に作り上げた神像について語っているのか、”とありますが、”わたしたち”ではなく、”わたしは”と言うべきだと思います。だって信仰は個人のものですし、信仰に伴う知識も個人によって解釈が違いますから。


(2)「ある仏教徒の『死後の世界観』」について

”だから、わたしは「わたしが死んで塵と帰しても世界は依然として存在し続けるであろう」とわざわざ言葉を選んで書いているのです”とありますが、”あろう”と言ったとたんに虚しいですよ。それから。”自分のことしか考えることができなければ、おそらく、「人間が死んで塵となるとすれば人生はむなしい」と思うかもしれません。”とありますが、人間はほとんどの場合、自分のことしか考えませんよ。もちろん他人のことを思いやる人もいますが、死んでしまえばこの世とは関係ありません。借金残されて他人が苦労しても痛くもかゆくもないわけです。なにやらクリスチャンらしからぬことを言っていますが、要するに私がノンクリスチャンであればそう考えるということです。


(3)高貴な選択

うーん。例えが悪いですよ。、”人々が、しばしば、隷属して楽をするよりは、苦しくても独立する方を選んだりするのは、幸福感の価値観とは別の価値観である「自由や高貴さ」を選択の物差しとするからでしょう。”とありますが、これ自体は理解できますが、ここで得られる”自由や高貴さ”はせいぜい20年か30年位しか続かないでしょう?そのあとはどうなるんです?死んでしまったらやっぱり虚しいっすよ。聖書って常に永遠という物差しで話をしているのでそういう例えを用いてくれなくちゃ。


(4)正しい宗教

こういう考えの人って日本人に多いですよね。私の友人にもこういう人いました。私が冒頭で”いまいち佐倉さんの考えが理解できません”と書いたのは大部分ここから来ています。是非ご自分の正しいと思われる何かを明確化してください。でないとわけがわからないですよ。あなたが何者なのか。佐倉さん自身が宗教を始めるという手もあるわけだし。


(5)最後に一言

”信仰者は、その主張の根拠を示すことを求めらるとき、いつでも「ただ信仰による」と逃げるくせに、心の中では、秘かに、単なる思い込みではない、と思っているのです。”私なんか”密かに”ではなく堂々と思っています。だって信仰ってそういうもんでしょ?それから、”思い込み”という言葉をよく用いられますが、聖書が過去に書かれたものである以上、正しいか正しくないかは実は証明できない訳です。だって現在生きている人はみんな見ていなんですから。そう言う意味で”思い込み”ではなく、”信仰”なわけです。佐倉さんは聖書が間違っているという前提で話をされているので”思い込み”と言われていますが、正しいか正しくないか証明できない以上、それは"信仰”と言うべきだと思います。そう、”進化説”と同じですね。それから”逃げる”とありますが、そんじょそこらの一般的なクリスチャンなら難しくて逃げるかもしれませんが、専門家がたくさんいるでしょう?彼らならとことん答えてくれるのでは?特にそちらはアメリカでしょう?John F.MacArthur,Jr.なんてどうです?最近彼の本を読みましたがなかなか鋭い洞察力がある人のようです。日本人同士で日本人的発想のもとに討論しても分からないことも多いのでは?

それから全体を通して思ったんですが、佐倉さんは非常に多くの”例え”を用いられますね。まるでイエス・キリストのようです。ひょっとしてまだ信じてるんじゃないんですか?もしそうなら是非教会へ行ってください。彼らは暖かくあなたを迎えてくれるでしょう。

日本より愛を込めて

尾垣祐之

一応「質問」という形式はとってはいるけれど、こういうものを「質問」と言ってよいのかどうか、わたしは深く考えさせられます。相手が答えようとすることを理解するつもりのない「質問」は、いったい何を求めているのでしょうか。

考えてみれば、聖書だけが真理であると思い込んでしまえば、そうでないもの、とくに、それに反する声に耳を傾ける関心はなくなってしまうのは当然のことかもしれません。

聖書だけを真理であると思い込むことによって、なんと大切なものが失われてしまうことでしょうか。

ほんとうに聞きたいと思われるときが来たら、つまらない揚げ足取りではなく、本当の対論対話ができることでしょうが、あまり期待もできそうにありません。


(1)「どの程度の知識があれば神を知ったことになるのか?

たった一つのことでも神について知ることができれば、少なくともそれだけ神について知っていることになるわけです。(どうして、こんなあたりまえのことをわたしは書かねばならないのでしょうか。)


(2)「一番大切な知識は”イエスの十字架上の死は自分の罪の身代わりであった”いうことだけ

壁に向かって語りかけるような気持ちで繰り返します。

わたしたちが知ることができるのは「イエスの十字架上の死は自分の罪の身代わりであった」ことを言い触らす人々がいた、ということだけで、かれらが言い触らした「イエスの十字架上の死は自分の罪の身代わりであった」という主張が事実であったという根拠や証拠はまったくありません。したがって、「イエスの十字架上の死は自分の罪の身代わりであった」という主張は、知識ではありません。


(3)「それから、”わたしたちは本当に神について語っているのか、それとも、神についてわたしたちが心に作り上げた神像について語っているのか、”とありますが、”わたしたち”ではなく、”わたしは”と言うべきだと思います。だって信仰は個人のものですし、信仰に伴う知識も個人によって解釈が違いますから。

つまらない屁理屈です。自分で質問をしておきながら、その質問に応えようとする相手の言葉を理解するつもりが始めからないから、こんなふうになってしまうのでしょう。


(4)「死んでしまえばこの世とは関係ありません。借金残されて他人が苦労しても痛くもかゆくもないわけです。なにやらクリスチャンらしからぬことを言っていますが、要するに私がノンクリスチャンであればそう考えるということです。

そのとおりでしょう。もともとエゴイストだから死後についても自分のことしか考えない思想(永遠の魂)に執着するのです。それがキリスト教の死後の世界観の貧弱さです。それが「ある仏教徒の『死後の世界観』」でわたしが気がついたことの一つです。


(5)「ここで得られる”自由や高貴さ”はせいぜい20年か30年位しか続かないでしょう?そのあとはどうなるんです?死んでしまったらやっぱり虚しいっすよ。聖書って常に永遠という物差しで話をしているのでそういう例えを用いてくれなくちゃ。

自分のことしか考えないから自分の死が「虚しい」のです。もういちど、「ある仏教徒の『死後の世界観』」を読み直していただきたいと思います。この質問に対するわたしの考えはすべてそこに詰まっています。


(6)正しい宗教

こういう考えの人って日本人に多いですよね。私の友人にもこういう人いました。私が冒頭で”いまいち佐倉さんの考えが理解できません”と書いたのは大部分ここから来ています。是非ご自分の正しいと思われる何かを明確化してください。でないとわけがわからないですよ。あなたが何者なのか。佐倉さん自身が宗教を始めるという手もあるわけだし。
「どの宗教が正しい宗教か」という宗教比べはナンセンスである、というのがわたしの立場ですが、それは単純な相対主義ではありません。わたしは、なぜ宗教比べがナンセンスであるかというその根拠を提示しているのですから、もし、宗教比べはナンセンスであるというわたしの立場を批判したいのなら、まず、わたしの立場の根拠となっている主張を分析批判してからにしてください。もし、わたしの提出した根拠が理解できないようでしたら説明を加えるつもりですが、すこしでもわたしのあげた根拠を理解しようとされたなら、こんな質問を繰り返されるはずはありません。


(7)「聖書が過去に書かれたものである以上、正しいか正しくないかは実は証明できない訳です。

そんなことはありません。聖書が間違っていることを断定する方法はあります。「はじめに」を読んでください。


(8)「John F.MacArthur,Jr.なんてどうです?最近彼の本を読みましたがなかなか鋭い洞察力がある人のようです。

ここには、キリスト教の抱える深い欠陥が露出しています。クリスチャンの信念は、知識という根拠がないので、どうしてもなんらかの権威に依存せざるをえないのです。尾垣さんは自分の信念の根拠をあげられないので、John F.MacArthur,Jr.という権威に依存しておられるわけです。同じようなことは、John F.MacArthur,Jr.に聞いても起こるでしょう。信じるということが、そもそも、権威に依存するということだからです。


(9)「佐倉さんは聖書が間違っているという前提で話をされているので”思い込み”と言われていますが、正しいか正しくないか証明できない以上、それは"信仰”と言うべきだと思います。

信仰には何の根拠もないために、「知識も信仰である」という自己欺瞞に逃避されているのです。「お前も、同じ欠陥があるではないか」という逃避の屁理屈です。しかし、知識とは客観的な根拠がある主張のことです。「聖書が間違っている」という主張は信仰ではなく、客観的な根拠のある主張です。それに比べて、「聖書はすべて正しい」という主張は根拠のない主張です。一方は知識であり、他方はたんなる思い込み(信仰)です。

人類の作った火星探査機が火星に到着するのは、信仰によるのではなく、客観的な根拠のある知識によります。しかし、クリスチャンが救われて天国に着くという主張には何の根拠もありません。単なる思い込みです。信仰とは「そうあって欲しい」という思い込みに過ぎません。


(10)「日本より愛を込めて

うそでしょう。