太陽の創造と地球の創造との矛盾に対しての意見ですが、天地の創造は

	一日目・・・光の創造によって昼と夜が定められた。
	二日目・・・大空(天)の創造
	三日目・・・陸と海の創造と植物の創造
	四日目・・・太陽と月と星の創造
	五日目・・・水中の生物と鳥類の創造
	六日目・・・人間と地上の動物の創造
との順序となりますが、幾つかの考え方を出してみました。

まず、簡単なところで日数の取り方ですが、ここでの一日を24時間とした場合、植物が創造されてから太陽の創造までは24時間以内となり、枯れかかった植物を創造したとは考えられないので、植物にとって死滅に追い込まれる程の時間ではないと思います。つまり一日くらい太陽光線がなくっても植物にとってはたいした事ないんじゃないの、という所でしょうか。

というのは、軽い前座として。

現代人にとって、何かを説明する時、そこには科学的根拠、理論的説明が求められる事になりますが、「光は何故あるの?昼は何故明るいの?」と聞かれた場合、おそらく全ての人が「それは太陽というものがあってね・・・」ときわめて科学的、理論的に答えるでしょう。それは人間が目にする光が太陽によって発せられているという一つの科学的根拠、事実によるからです。そしてそのことを全人類が共通の科学的知識、常識として認識しているからです。このコーナーに反論している人もその認識の故に、原始太陽とか核融合とか素人にわかりにくい事をもちだして、次々と佐倉さんの疑問を引き出しているように思われます。そこで私はもっと単純に誰でも理解できそうな意見を提示します。まず、植物(だけでなく)の必要とする光とは太陽の発する光だけなのか?という事です。「植物には光が必要である」という事実と「科学的光源のない時代に光源は太陽のみである」という事実の故に人間は「太陽光が植物を育てている」と結論付けますが、太陽と同等の光を発する物体があったら、この結論はまったく説得力の無いものになってしまいます。そして聖書は最初に「光が創造された」とあります。そしてこの「光」を「昼」と、「やみ」を「夜」とされたとあります。つまり太陽創造以前に光はあり昼と夜は存在していたという事になります。さらに創世記1:14からは「光る物は・・・・大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ・・・光とやみを区別するようにされた・・」とありますが、はっきりと「光」自体と「光る物」とが別であることを言っています。ここから考えられる事は

(1)光が最初にあった。
(2)光を発する物体として太陽と月が創造された。
(3)太陽を昼の、月を夜の管理者として定められた。
という事です。つまり、初めの「光」の代役として太陽が創造されたということであり、逆に言えば太陽光で代用できる程度の光は最初から存在していたという事になります。だとすると、植物より後で太陽が創造されていても何の問題もありません。

というのが私の意見ですが、いかがでしょうか?無理に創造の記述に合わせて科学的根拠を持ち出す事もないでしょう。不可思議な事実を説明する為に科学的な説明を持ち出すから話しが難しくなってしまうのです。単純に簡単に素朴に考えれば、聖書の記述はわりと説明がつくものです。

しかしながら、この意見が仮にその通りだとしても、科学的に証明する事など不可能です。太陽の諸元を正確に測定することが現代科学では不可能であり、太陽にかわる恒久的光源がつくれないからです。ですが、人間に踏み込めない不可能な領域だからこそ神の創造の偉大さが際だっているのではないでしょうか。逆に人間の科学レベルが創造を究明するレベルまで達してないと言う事もできます。

"街角のクリスチャン"より

なんとかつじつまを合わせようとして、第四日目に太陽と月を「創った」と聖書にはっきり書かれているところを、第四日目に太陽と月が「見えるようになった」と平気な顔をして拡大解釈する立場より、はるかに好感が持てます。

しかしながら、紹介されているあたらしい(?)立場は、太陽の出現以前に、地球の植物を育てるのに必要な「太陽と同等の光を発する物体があった」という、物理学的に何の根拠もない主張を前提としています。

さらにまた、創世記の創造神話は、もちろん、地動説が発見される前のことですから、地球が先に存在していて、あとから、太陽と月と星が創られた、ということになっています。しかし、地球は太陽の回りを回りながら存在していることを知っているわたしたちが、太陽なしに地球が存在することができたと主張するためには、たとえそれが不可能ではないとしても、かなり困難な物理学的説明を要することが想像されます。

それにくらべて、創世記を書いた人は無知だった、というわたしの主張は、曲芸師的な説明をまったく必要としない、はるかに簡単明瞭で、もっともありそうな、説得力ある説明だと思います。