始めまして、奥野と申します。インターネット上にこのようなホームページを開設し、それをキチンと運営されている佐倉さんの勇気や努力、またそれを支える膨大な博識にただただ感心させられました。私自身はクリスチャンではありませんが、極めて個人的な理由で聖書やキリスト教には強い関心を持っておりまして、偶然目にしたこのHPを大変興味深く読ませていただきました。そこで、2点質問させて下さい。

質問1.

佐倉さんは、『はじめに』という所で自分のスタンスを明確にされ、以下のように書かれております。

聖書の間違いシリーズの目的は、『聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、全て正しくいかなる間違いも含まない』という主張の真偽を吟味することです。
この佐倉さんのスタンスについて『ただのひと』さんが、『極端な場合、地上のだれも主張していない主張を批判するということにすらなりかねません』と指摘されたのに対して、佐倉さんは、
自分自身の抱える問題に解答を見出す作業は、決して歴史や世界からの断絶を意味するものではありません。すべてのわたしの個人的問題は、わたしの過去の経験と学習とわたしを取り巻く他との複雑な関係などから生まれてくるものだからです。わたしのキリスト教や聖書に関する理解や問題は、キリスト教思想やその他の学習や経験から生まれてくるものであって、わたしが無から創造したわけではありません。
と、答えておられます。では、佐倉さんは、『わたしの過去の経験と学習とわたしを取り巻く他との複雑な関係』から判断して、だれが、あるいはどういう団体が、こういう主張をしているとお考えなのでしょうか。

(P.S) この質問は、『ただのひと』さんとのやり取りを興味深く読ませていただいた上で、あえてお尋ねしております。お二人のやり取りでは、ポイントとなる所が幾つかに分散していたり、また、FASE TO FASEの会話ではなく、ネット上の会話という制約もあって、お互い納得できるような形で終わっているようには思えません。このテーマが、『自分自身が抱える切実な問題』だというあなたの心情はよく理解できますが、それが、あなただけでなく、他の誰かにとっても同様に切実な問題なのか。(あるいは、切実な問題であるはずなのか)それとも、『自分はあの娘が好きなのに、あの娘はちっとも振り向いてくれない』という程度に個人的問題なのか、もし後者だとすれば、あなたのHPを読んだ者は、『がんばって下さい』としか言いようがありません。


質問2.

佐倉さんは、『はじめに』という所で聖書の間違いを判断する根拠として、『私たちが確信している知識と一致しない』『聖書の記述に内部矛盾がある』という2点を根拠とすると言われております。確かにこの判断基準は十分に客観性があり、この場合に相応しい方法であることは私もよく理解いたします。

現在、佐倉さんがこの基準に従って指摘されている33の間違い個所を見ますと、いずれも、いかに解釈を施し調和化を図ろうとも、間違いであることは明白な個所ばかりであると思えるのですが、ただ1つ、『モーセは奴隷解放者ではない』についてだけは、佐倉さんが判断基準とされた2つの点から考えて疑問を持たざるを得ません。

旧約の英雄であるモーセが奴隷制度を容認していたことや、他民族を奴隷にするよう命じたこと、自分の奴隷への虐待や殺人を殆ど意に介さなっかたことなどは、確かに現在の我々の判断基準からして許されることではないと思います。しかし、これは古代と現代の倫理基準の問題であり、佐倉さんが設定された判断基準とは関係がないように思われます。

もしこれが『聖書の間違い』であるならば、聖書にはたくさん出てくる一夫多妻、近親相姦、民族絶滅、女性差別、動物虐待などに関する話は全て同じ意味で『聖書の間違い』になります。イスラエル民族の祖であるヤコブが兄の長子権を騙し取ったなどという話はその最たるものであり、それこそ『聖書は間違いだらけ』となってしまいます。

(1)質問1(その1)

だれが、あるいはどういう団体が、こういう主張(「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、全て正しくいかなる間違いも含まない」)をしているとお考えなのでしょうか。
わたしのキリスト教経験はほとんど(現在も住んでいる)米国におけるものです。聖書の無誤謬性を信じているクリスチャンは、いわゆる、「ファンダメンタリスト」と呼ばれるクリスチャンです。そして、米国においては、右を向いても、左を向いても、ファンダメンタリストと呼ばれるクリスチャンにぶつかります。たとえば、わたしがメリーランド州に住んでいたころ、近所の熱心なクリスチャン婦人は、しばしばわたしのところにきて彼女の教会(Church of Christ)へ改宗することを説きました。彼女の紹介で、その教会の牧師さんにもおいでいただき、わたし個人のために聖書講義をしていただいたことがあります。この牧師さんも、厳格な「ファンダメンタリスト」であって、聖書に関するわたしの持つさまざまな疑問にも答えていただきましたが、「聖書は神の言葉(God's Words)であって、すべて真理である」、という立場でした。

統計ではどうなっているのか知りませんが、わたし自身の経験では、田舎に行くほど、キリスト教会や神学校は、「ファンダメンタリスト」傾向にあるようです。ニューヨークに住んでいた数年間にはあまり出会うこともなかったからです。そのころは近所の「リバーサイド教会」という大変リベラルな教会の礼拝に参加していたのですが、それでも、信者の中には、そういうリベラルな教会の方針をよく思わないファンダメンタリストの人たちもいて、当時、彼らだけの特別のサークル活動をしていて、「教会の間違いをただす」という目的で信者のための独自の聖書研究のクラブ活動のようなことをやっていました。おもしろいので、わたしも何回か参加したことがあります。

わたしは、アメリカのどこにいっても、みつけたキリスト教専門書店には、できるだけ入ってみるようにしていました。そこに並べられている書物を見ても、ファンダメンタリストの立場が、すくなくとも、米国クリスチャンの間では影響力の強いものであることがわかります。ここ数年はエホバの証人の方々が「聖書研究」ということで、わたしを訪ねてこられますが、この方たちも、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、全て正しくいかなる間違いも含まない」という立場です。また、今日、アメリカ人の熱心なクリスチャンのウェブサイトを見ると、その多くがファンダメンタリストの立場であることがわかるでしょう。有名人の名前をあげれば、カーター前大統領やレーガン前大統領などもファンダメンタリストの例としてあげることができます。

日本のクリスチャンの場合はよく知りませんが、もしかしたら日本では、間違いがあっても聖書は神の言葉である、というような(論理が無視されても気にしない)立場により人気があるのかもしれません。


(2)質問1(その2)

他の誰かにとっても同様に切実な問題なのか・・・それとも、『自分はあの娘が好きなのに、あの娘はちっとも振り向いてくれない』という程度に個人的問題なのか・・・
果たして聖書は本当に神の言葉なのか、という問いは、多くのクリスチャンにとっても、当然、切実な問いであろうと思っています。わたしはこの問題に興味のある方の(同意や反対の)意見を聞いてみたいわけです。


(3)質問2 

ただ1つ、『モーセは奴隷解放者ではない』についてだけは、佐倉さんが判断基準とされた2つの点から考えて疑問を持たざるを得ません。
厳密に言うと、おっしゃるとおりかもしれません。わたしとしては、ここでは、聖書の神は「愛と正義と公平」の神である、ということが聖書の一部で語られている(そしてそのことだけが宣伝されている)けれど、聖書の別のところを見ると、聖書の神は「愛と正義と公平」の神とは言えないではないか、というふうに神の性質に関する聖書の矛盾した記述を指摘したつもりでした。