佐倉様。初めてお便りいたします、木原と申します。
本サイトをほぼ見せていただきました。大変興味深い内容で、私も一言感想を述べさせていただきたく、メールいたします。ただ、あまりに文書量が多いため、内容について過誤があるかもしれませんが、その際はご容赦ください。
まず、私のヤウエの理解について述べるほうがよいでしょう。ヤウエは「全能者である」と端的に定義することができます。私にとって、全能者とは、もしそれが存在するのであれば理解不能の恐ろしい存在(怖れの対象にあらず)であって、「信じる」などという対象ではありません。「全能者」にはその定義によって不可能がないからです。
# 全能者は因果律に縛られるのか。
例えば、ある人間の最後の言葉を、ある人には「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と聞かせ、ある人には「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と聞かせ、またある人には「成し遂げられた」と聞かせる存在であるのです。
あるいは例えば、6千年前に人類を創造しておきながら、100万年前から人類を存続させている存在なのです。
またあるいは例えば、互いに矛盾した記述に対して「矛盾はない」と言わせる存在なのです。
この様なことは、明らかに論理矛盾であって、人間に理解できることではありません。その人が言った言葉は何かある一つの言葉でなければなりません。ある事柄が起こるのは6千年前か100万年前かどちらかでなければなりません。しかし、「不可能が無い」のならば、論理的な矛盾を起こしながらある事象を起こすことも可能と言わなければなりません。「自分でも持ち上げられない石を作ることのできる存在」、それが、「全能者」というものでしょう。
私にとっては、ヤウエとは(もし存在するならば)そのようなことがやすやすとできる存在です。また別の見方をすると次のような存在です。
全宇宙の大きさはおおむね200億光年と見積もられますが、その全てに気を配っていながらその中のひとりの人間の小さな願いにも気を配る存在です。そのスケールの差は、約10の26乗に達しますから、大ざっぱに言って、ひとりの人間が自分の中にある一つ一つの原子を全て愛するようなものであり、また、ひとりの人間が全世界の生物(植物もアメーバも全部含む)の細胞一個一個(生物一つ一つではない)を全て愛するようなものです。
もちろんこんな比喩はキリスト教徒に言わせれば「全宇宙がいくら広いと言っても、神様は人間に特権的な地位を与えたのだ。なぜなら聖書にそう書いてあるから。だから、そんな比喩は無意味だ。」というのでしょう。それはどうでもいいのです。たとえ神が気を配る相手が人間だけだとしても、全キリスト教徒とその予備軍全ての願いを聞く(かなえるかどうかは別として)ことは人間にはできないことだということには変わりがありません。それが想像を絶するか、想像力の限界以内か(少なくとも、全人類という概念は想像できますからね)というだけです。
さて、このような、人間には不可能な事をやすやすと可能にする存在は「人格的」でありえるでしょうか。あるいは、その様な存在が持つ「全き愛」というものは、人間にとって喜ばしいものなのでしょうか。そもそも、「全能者」が我々を「愛している」というとき、その意味する内容は人間が「愛している」という内容と同一でありうるのでしょうか。
# ヤウエはその一人子を十字架に架けさせるほど人間を愛しているという # 全能者にとって一人子などどれほどの価値があろうか
ああ、もちろん「全能者」なのですから、そういうことは全て可能なのでしょうね。論理的矛盾をものともせずにある事象を起こす存在なのですから。しかし、私にはそのような存在は恐ろしいだけです。ヤウエが全能者であるということは、ヤウエが非人間的だということと同義であり、なぜそのような非人間的な存在が我々を愛していると信じられるのか私には理解できません。
# ああ、だからイエスをこの世に送ったというわけですか。信じるものは幸せですね。 # なぜ理解不能な存在の「愛」が信じられるのか。
自分より圧倒的に、想像を絶するほど、力の強い人間が現れたとき、その人間に対する屈服は奴隷の屈服を意味します。なぜその理解を超えた人間(神、存在)の愛を信じることができるのか。たとえひどい仕打ちをされても、「きっとこれは愛を示しているのだ。その真の意図が私には理解できないのだ。」として自らを慰める(信仰する)のです。そうしなければ生きていけないから。
私は焦燥に駆られます。もし本当に全能者が存在するのであれば、このような私の想いも知っていて「親不孝な息子」のように思っているだけかもしれないからです。そのような癪な存在は、私にとって敵でこそあれ、我が身をゆだねるような存在ではありません。
# だから信じてしまえば幸せになるって?
そもそも、神を信じるとどんないいことがあるのかというと、「永遠の命」がもらえるというのです。そんなもの真っ平ごめんです。「罪を許してくれる」というのです。「罪」とは私の理解では神の言葉に背いて生きることですが、望むところです。許してくれないほうがうれしい。私は奴隷の幸福はいらない。
# だから私が神を信じないのは神の愛の現れだと言われたらどうしよう。
閑話休題。以下が本論です。
本サイトを訪れた方々の声を読むと、皆、聖書には矛盾が存在することをほぼ認めているように思います。強硬な反対者、嫌悪感を持つものであっても、「聖書が内容として矛盾していない」というだけであって、「論理的には矛盾した内容を含む」ことには異存がないのではないのでしょうか。もっともこれは、がちがちのファンダメンタリストが日本人には少ないからかもしれません。だとしても、「聖書には少なくとも一つの論理的矛盾がある」ことはほぼコンセンサスができたように思います。
さて、「はじめに」にありますように、聖書が少なくとも一つの論理的矛盾を持つと言うことは、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」と言う命題が偽であることと同値です。もちろん「いかなる」というのが「論理的にも」という前提の下で、また、人間の論理学が「全能者の論理学」に演繹できるという前提の下でです。
「ただのひと」さんとの議論では
> (1)人間は不完全であって、不完全な人間が誤らないという主張はあやしい。と言う動機の下に
> (2)人間を神格化する思想を無視することは賢哲な判断ではない。
> 「聖書に間違いがない」という主張の吟味と言う目的を設定されたとあります。さあ、佐倉様の所期の目的は達成されました。反証は一個で十分です。で、これからどのようになさいますか? ふざけているように感じられたら申し訳ありません。私が佐倉様のサイトを見ていちばん知りたかったことはこのことなのです。
木原 伸浩
(1)「聖書の間違い」・・・これからどうするか
さあ、佐倉様の初期の目的は達成されました。反証は一個で十分です。で、これからどのようになさいますか?反証の数を増やすことです。論理的には、確かに「反証は一個で十分」です。しかし、それはいままで多くの学者によってもなされてきたことです。まだなされていないのは、どれほどたくさんの間違いが聖書にはあるのか(数百?、数千?、数万?)を調べるという、学者にとってはおそらく実につまらない作業です。わたしはそれに興味があるのです。つまり、「聖書には間違いがある」という主張から「聖書は間違いだらけである」という主張に変わっていくことです。
(2)「矛盾を可能とする全能者」について
おっしゃられるような意味でのなんでもできる絶対的全能者は、全能者でないことができないので、「三角の円」のような、存在不可能な矛盾概念です。矛盾した二つの言明は同時に真理にはなりえないので、「矛盾を可能とする全能者」は、人間に理解不可能な存在なのではなく、存在することが不可能であるということがちゃんとりっぱに理解できる、あるシロモノ(頭の中でひねりあげられた観念)にすぎないことがわかります。