統一教会のシャーマン(霊能者・巫女)の一人である金英順(キム・ヨンスン)女史が、生前統一教会の幹部のひとりであった李相軒(イ・サンホン)という一人の死者との交流を記したという、「李相軒先生が霊界から送ったメッセージ」という同一の副題を持つ書二冊に目を通す機会を得ました。統一教会の霊能者の主張を吟味します。
統一教会は新興キリスト教の一つですが、信者が韓国の文鮮明さんを再臨のキリストとあおぐ、ということでも知られているように、伝統的キリスト教とはかなり趣を異にするキリスト教系の宗教です。その教義(「統一原理」)は、キリスト教を中心としてはいますが、儒教の忠孝烈の家族倫理や道教の陰陽思想などを取り入れた、きわめて「韓国風」なものです。
なかでも、その霊界思想は、地上の霊能者が死者と会話することができるなどとする、いまでも朝鮮半島にひろく影響を持つ土着シャーマニズム(死者や神と霊通する巫女への信仰)を取り入れており、死者に伺いを立てる口寄せや霊媒をかたく禁止する聖書の伝統(申命記18:9〜14)からはなはだしく逸脱しています。
朝鮮半島のシャーマニズム(巫教)は、古くは、巫女が飲酒や踊りを通じて霊と交流し、古代韓人の「豊かな生産と安寧幸福」を計っていたと言われています。後には中国から伝わった仏教や儒教や道教などの影響を受け、あるいは、それらに影響を与えながら、発展しています。「八関会」とか「燃燈会」というのは仏教が土着のシャーマニズムの影響を受けた例であり、「花郎道」や「東学運動」などは、シャーマニズムが外来宗教を媒介にして発展した例である、と言われています。(柳東植「韓国のシャマニズム」、加藤九祚(きゅうぞう)編『日本のシャマニズムとその周辺』、171〜172)
統一教会の霊界思想は、朝鮮半島に伝わったキリスト教が土着のシャーマニズムを取り入れることによってできた思想であると考えてよいでしょう。純粋に聖書の伝統にしたがえば、聖書の神は、明らかに、シャーマニズムを「神が憎む人間の習慣」として強く否定しているからです。
あなたが、あなたの神、主(ヤーヴェ)の与えられる土地に入ったならば、その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない。あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせるもの、占い師、卜者、易者、呪文を唱えるもの、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。これらのことを行う者をすべて、主(ヤーヴェ)はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主(ヤーヴェ)は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。今回、統一教会のシャーマン(霊能者・巫女)の一人である金英順(キム・ヨンスン)女史が、生前統一教会の幹部のひとりであった李相軒(イ・サンホン)という一人の死者との交流を記したという、「李相軒先生が霊界から送ったメッセージ」という同一の副題を持つ書を二冊に目を通す機会を与えられました。光言社出版の『霊界の実相と地上生活:李相軒先生が霊界から送ったメッセージ』と成和出版の『天上の秘密と釈迦のメッセージ:李相軒先生が霊界から送ったメッセージ6,7』です。(申命記 18:9-12)
霊界とか死後の世界などといったことに関する霊能者の話は、人間の認識の届かない領域について語られるものですから、それが本当なのかどうかは誰にもわかりません。それがどんなんにデタラメなつくり話しであっても、ウソであることがばれる心配はないわけです。それでも、霊能者たちは、霊界の話をしているつもりで、ついつい、わたしたちの知っている地上の出来事について語ってしまうものです。金英順さんも例外ではありません。地上での出来事ならば、わたしたちは、それがウソか真実か調べることができます。
1.霊界のソクラテス
『霊界の実相と地上生活』の第四章「霊界で会った人たち」には、死んだ李相軒(イ・サンホン)さんが霊界で出会ったとされる人々についての記述があります。イエス・キリスト、聖母マリア、釈迦、孔子、マホメット、等々。そのなかで、ソクラテスに出会ったという記述がまずわたしの注意を引きました。
(1)ソクラテスの方法
金英順(キム・ヨンスン)さんよれば、霊界の李相軒さんは、霊界で出会ったソクラテスについて、彼女にこう語ったことになっています。
人間の本性は、神様を探すようになっています。ところが、自分の思想と自分の考えにあまりに執着するようになれば、神様の存在を忘れたり、否定しやすいのです。ソクラテスに会うために、私は相当努力して苦労しました。しかし、会いに行ってみると簡単ではなかったのです。この方がとどまる所を階層でいうなら、中間霊界よりももっと低い所といえます。なぜ会うのが大変だったかというと、この方が会ってくれようとしなかったからです。・・・会うのが嫌な理由は、自分の思想と相手の思想について、討論するのが嫌だからなのです。それは、彼が今まで考えてきたすべての知性の実が、誤っていなかったということに固執する立場でもあり、もう一つは、相手の思想を聞く必要がないということです。本当に傲慢な方で、また話すのを面倒がったりもします。わたしの話を聞こうともしません。・・・この方は、一度考えにふければ、その問題点が解決するまで誰にも会おうとしませんでした。それゆえ、その方は周囲は索漠としており、人々と若干距離がある所にいました。ソクラテスについてほんの爪先ほどの知識でも持っている者ならだれでも、このソクラテス像がデタラメであることにすぐ気がつくでしょう。なぜなら、ソクラテスほど他人との対話を好む哲学者はいないからです。ソクラテスがあるとき同じところに立ち止まって日が暮れてもそのままの状態で、次の朝になるまで立ち続けて思索を続けていた、などという記述もありますが、いかなる意味においても、ソクラテスが、他人との交流を嫌い、対話を好まない人物であったことを示すものはありません。同時代のクセノポンは、ソクラテスについて、「いつも人の見る所にいて、たいていは談論していた。それは誰でも、聞こうと思えば、聞けるものであった」と書き残しています。また、ソクラテスを揶揄する人からも、「おしゃべり乞食」などとからかわれています。そして、なにもりも、プラトンの書き残したものが、ソクラテスが<対話する哲学者>であったことを如実に物語っています。プラトンの書き残したソクラテスの姿は、たとえば、いつでもこのような形で始まります。(『霊界の実相と地上生活:李相軒先生が霊界から送ったメッセージ』、112〜113頁)
ソクラテス:クリトン、どうして君は今時分にやって来たのだ。まだ大変早いじゃないのか。そして、こういった会話はいつの間にか哲学的な問答に発展していきます。
クリトン:たしかにそうだよ。
ソクラテス:およそ何時時分だろう。
クリトン:まだ夜明け前だ。
ソクラテス:不思議だね、牢屋の番人が君を入らせる気になったのが。
クリトン:ソクラテス、あの男はもうよく僕のことを知っているのだ、僕がたびたびやって来るものだから。それにあの男はまた僕から何かと心付けをもらっている・・・(プラトン著『クリトン』、久保勉訳)
カリクレス:やあ、ソクラテス、争いごとや喧嘩に加わるのだったら、あなたがたのようにすべきだと言われていますがね。
ソクラテス:え?それではぼくたちは、諺にいうように、「祭りが終わった後に」来たのであって、間に合わなかったというわけかね?
カリクレス:そうなんですよ。それも、たいへん優雅な祭りでしたのにねえ。というのは、ほんのついさっき、ゴリギアスが、いろいろと見事な弁論ぶりを、われわれに見せてくれたのですからね。
ソクラテス:しかし、そういうことになったのは、カリクレス、ここにいるカイレポンの責任なのだよ。この人のために、ぼくたちはアゴラで、やむなく手間を取らされたものだから。・・・・(プラトン著『ゴルギアス』、加来彰俊訳)
クリトン:ソクラテス、君の言うことは正しいように思われる。だが僕たちはどんなに行動したらいいか、考えてくれたまえ。といった具合です。
ソクラテス:一緒にそれを考えてみようではないか、善き友よ。それからぼくの言うところに対して何か反対説が立つなら、反対したまえ。そうすればぼくは君に従おう・・・。
クリトン:じゃあそうして見よう。
ソクラテス:僕たちの主張は、人はいかなる事情の下にも、決して故意に不正を行ってはならないというのか。それとも、ある場合には行ってもいいが他の場合にはいけないというのか。・・・クリトンよ、僕たちはこんなに年寄りで、しかもあんなに長らく熱心に議論を戦わし合っていたくせに、今が今まで子どもと何の違いもなかったことに気づかずに来たわけなのか。・・・僕たちのあの頃の主張には、いささかの変わりがないのか。僕たちはそれを肯定するのかしないのか。
クリトン:肯定するのだ。
ソクラテス:では、人はどんな場合にも不正を行ってはならないのだね。
クリトン:むろんならない。
ソクラテス:では、多衆が考えるように、人はまた不正に報いるに不正をもってすべきではないのだね、なぜといえば人はどんな場合にも不正を行ってはならないのだから。
クリトン:明らかにそうすべきではない。
ソクラテス:じゃ重ねて聞くが、クリトン、人は誰かに禍害を加えてもよかろうか、それともわるかろうか。
クリトン:それは無論わるいにきまっているさ。ソクラテス。 ・・・(同上、『クリトン』)
このようなソクラテスの哲学の方法は「ディアレクティケ(問答法、対話法)」と一般に呼ばれています。ソクラテス自身も自らのやり方を産婆術にたとえています。
産婆たちと同様の事情で、僕は智慧を生めない身なのだ。だから、既に多くの人たちが僕を難じて、他人にたずねるばかりで、自分は何の智慧もないものだから、何事についても、自分一個の見識は示さないと言ったのは、いかにもかれらの非難の通りである。これには、しかし、次のような子細があるのだ。ぼくは取り上げの役を受け持つように、神が定めたまい、生むほうの役は、封じてしまわれたのだ。だからこそ、僕自身は、まったく少しの智慧もない身であり、自分の精神が生んだもので、これといって智慧者めいた発見などは、何もないのだ。ところが、ぼくと交わりを結ぶ者はというと、当初のうちこそ全然の無知と見える者もないではないが、やがてこの交わりが進むにつれて、神の許しさえあれば、すべての者が、わが目にも多の目にも、驚くばかりの進歩を遂げることは、疑いないのだ。それがしかも、これは紛れもない事実なのだが、ついぞこれまで、何ひとつとしてぼくから学んだというわけではなく、ただ自分だけで、自分自身の許から、数々の見事なものを発見し、出産してのことなのだ。ただしそうは言っても、その際の取り上げは神の御業であり、ぼくもまた、それには微力を致しているのである。(『テアイテトス』、150CD、田中美知太郎訳)ソクラテスは自分一人ではいかなる智慧も生むことはできないが、他者との交わりのなかで、新しい智慧が生まれてくるのだ、それは、他者が自分から学んだものではなく、自分はただ産婆の役目をしているにすぎない、というわけです。ソクラテスは、また、こう言います。
人間にとっては、徳その他のことについて、毎日談論するということが、まさに最大の善きことになっているのであって、わたしがそれらについて、問答しながら、自分と他人とを吟味しているのを、諸君は聞いておられるわけである。 (プラトン著、『パイドロス』、38A、田中美知太郎訳)こうして、クセノポンやプラトンその他の同時代の人々の残してくれた記録のおかげで、わたしたちは、ソクラテスがどんな人物であったのか、ある程度うかがい知ることができます。それは、いかなる意味においても、金英順さんのいうような、他者と「討論することを嫌がる」ような人物ではありません。
金英順さんは、ソクラテスの一冊も手に取って読んだことはないのでしょう。他人と交ることを拒み一人で独断的な思索に浸っている、という金英順さんのソクラテス像は、おそらく、哲学者一般に対して抱いている彼女自身のステレオタイプな偏見なのでしょう。
(2)実物の李相軒氏と想像の中の李相軒氏
いや、そうではない、金英順さんは自分のデタラメな思い込みを語っているのではなく、ただ霊界からの聞こえてくる声を伝えておられるだけだ、霊界におられる「李相軒先生が霊界から送ったメッセージ」を伝えておられるだけだ、という反論もあるかもしれません。
しかし、さいわいなことに、李相軒氏自身が生存中に書かれた著作が残されており、しかも、その中で李相軒本人がソクラテスの哲学方法についての言及があります。彼はソクラテスについて、実は、このように理解しているのです。
ソクラテスは真理を探求する方法としては対話法を主張しました。これは本当の意味における真理探求の方法です。・・・ソクラテスは本当の真理を探求するためにはお互いに謙虚な心で話し合いをしなければならないと主張しました。それで「汝自身を知れ」といいました。われわれは、ほんとうは何もわからない。ソフィストたちはわかるふりをしているが、ほんとうは何もわからない。だから謙虚な立場でお互いに真剣に話し合って、お互いに論理を展開して、はじめて究極な普遍妥当的な真理に到達することができるのだといいました。これこそほんとうに真理探求の方法であります。これは対話法ですが、統一思想から見れば授受作用の法則です。本物の李相軒氏はソクラテスの哲学方法が「対話法」であることをちゃんと知っているのです。つまり、金英順さんに語りかける(ソクラテスの哲学についてまったく何も知らない)「霊界の李相軒先生」と(ソクラテスの哲学について基本的な事実を知っている)実物の李相軒氏が同じ人物でないのです。これが何を意味するかは明らかです。金英順さんは、ただ自らのこころに思い浮かぶ事柄を、単純に、李相軒先生からのメッセージであると勝手に解釈しているだけなのです。(李相軒、『統一思想詳説 第二編』、光言社、134頁)
(3)ソクラテスと神
霊界のソクラテスについての金英順さんの語ることがデタラメであることを示す例をもう一つあげておきましょう。それはソクラテスと神に関するものです。金英順さんによれば、「霊界の李相軒先生」は次のように言ったことになっています。
ソクラテスは、神様の愛の中ですべての花が咲いて散る被造物の調和も、人間の生と死も、神様の能力の調和に起因しているという事実も、神様の存在についても、関心を持とうとはしませんでした。ここにも、金英順さんのソクラテスに関する無知が暴露しています。金英順さんは、自らの偏見から、ソクラテスは哲学者だ、そして哲学者は神に興味を持たない、と勝手に決め込んでいるのです。しかし、ソクラテスは、自らの哲学の仕事、すなわち「徳その他のことについて・・・問答しながら、自分と他人とを吟味」することを、「神への奉仕」と考えていました。
これがつまり、いまもなおわたしが、そこら中を歩きまわって、この町のものでも、よその者でも、誰か智慧のある者だと思えば、神の指図にしたがって、これを探して、調べ上げているわけなのだ。・・・そしてこの仕事が忙しいために、公私いずれのことも、これぞと言うほどのことを行う暇がなく、ひどく貧乏しているけれども、これも神に仕えるためだったのだ。・・・わたしは、アテナイ諸君よ、君たちに対して切実な愛情をいだいている。しかし、君たちに服従するよりは、むしろ神に服従するだろう。すなわちわたしの息の続くかぎり、わたしにそれができる限り、決して智を愛し求めることを止めないだろう。わたしはいつ誰に会っても、諸君に勧告し、宣明することを止めないだろう。上記のような例から、金英順さんは、ソクラテスについて単に無知であるというだけでなく、ソクラテスを知るためにただの一冊の本さえも読む努力をしていないことはあきらかですが、その彼女が、単なる思い込みで、ソクラテスを「他人の意見を聞こうとしない、本当に傲慢な方」などと平気で人格批判しているわけです。それが、「問答しながら自分と他人とを吟味する」哲学者のやり方と根本的に異なる霊能者という人々のやり方です。(『ソクラテスの弁明』、田中美知太郎訳)
2.霊界のブッダ
さて、わたしが手に入れることのできた、金英順さんのもう一つの著作、『天上の秘密と釈迦のメッセージ』(成和出版社)にも、「李相軒先生が霊界から送ったメッセージ」という副題がついていますが、中身は、ブッダが直接金英順さんに語りかけるという形式になっています。こんどは、金英順さんの「ブッダ」について調べてみましょう。
(1)ブッダの悟りと自我の発見
金さんの霊言によれば、ブッダの悟りとは「自我の発見」であったことになっています。
仏教徒の皆様、私は釈迦でございます。皆様は、「観世音菩薩、南無阿弥陀仏」という念仏の意味をご存知のことと思います。・・・人間として生まれて死ぬまで苦しみ、解決できない多くの問題をめぐって、大いに悩みました。その結果として悟ったことは、ただ単に「自我」の発見というものでした。・・・ただ自己を発見して主管さえすれば、すべてにおいて最高の基準に達することができると考えていました。(『天上の秘密と釈迦のメッセージ』、147〜149頁)わたしは、これを読んで、金さんはいったいどこからこんなデタラメを思いついたのか、いろいろ調べてみました。仏教のもっとも仏教らしい特徴の一つは、「自我の発見」などではなく、その逆、「自我の否定」(無我)であるというのは、仏教について初歩的な知識を持っている者なら当たり前のことだからです。ブッダの言葉として原始仏典の一つは次のような言葉を残しています。釈迦はまずこの世に生まれたことに対して感謝した。そして「私」を探し求め、発見してみたいと思った。その結果として、自我を発見したのである。(同書、211〜214頁)
われ(アートマン)というものはない。だから、「各仏教学派はその教義においてそれぞれ大いなる相違を示しているが、それでも一つの共通点をもっている。それはアートマン(自我)の否定である。(T.R.V. Murti, The Central Philosophy of Buddhism, p26)」 と言われるわけです。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。
(相応部経典22.55 増谷文雄訳)
そこで、金さんの書をあちこち読み回していましたら、次のようなことが書いてありました。おそらく、ここらへんに、金さんの「自我の発見」説の根拠があるのでしょう。釈迦が「自我を発見した」ことを述べたあと、次のように金さんは語られているからです。
ここで釈迦は途方もない過ちを犯した。釈迦自身を主管している、とてつもない力の根源者[神]を悟ることができなかったのである。・・・宇宙の森羅万象はすべて、神によって成仏するようになっている。私[釈迦]は、すべては自ら成仏すると考えていたが、これは途方もない誤謬であった。人間をはじめとした森羅万象のすべての存在世界は、どれ一つとして神の手が及んでいないものはない。この事実を悟るとき、釈迦の真理はあまりにも驕慢なものであり、致命的な誤謬を犯したということになる。(『天上の秘密と釈迦のメッセージ』、199〜201頁)釈迦は悟りの道を説いた。しかし、釈迦は神を説かなかった。だからその悟りは自我の力に依存するものだった。それゆえに --- と、金さんは早合点して --- 釈迦が発見したのは「自我」だった、と単純に考えられたに違いありません。確かに、釈迦は悟りの道を説き、神を説かず、自らの力に依存することを教えましたが、その自己が「空」であることを説いたところに、仏教における自我に関する思想(無我の思想)の心髄があるのに、彼女はそのことをまったく知らないのです。
自己によって、自己を観じて、(その自己を)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体がまっすぐで、自ら安立して、動揺することなく、心の荒みなく、疑惑のない(如来)は、お供えの供え物を受けるにふさわしい。(スッタニパータ、477)仏教についてもブッダについても、本当は何も知らないくせに、ただ、仏教に関する誤解だらけの風説で、自らの心に思い浮かんだいい加減なことを、安易に、霊界からのメッセージなどと思い込んでしまうから、金さんの霊言のウソがばれてしまったのです。つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。(スッタニパータ、1119)
(2)ブッダの悟りと極楽
金英順さんの想像のなかの「釈迦」が本物のブッダでなく、金さんの思いつきにすぎないことを示す例を、もう一つあげておきましょう。それは「極楽」に関する彼女の言及です。
なぜ人はこの世に生まれるのか。・・・人間の生の目的は何であり、その執着地がどこなのか・・・。私は様々なことが気にかかった。(『天上の秘密と釈迦のメッセージ』、167頁)「極楽に行く」という考えは『阿弥陀経』などの浄土思想系の仏典にあらわれる考えです。それは確かに仏教における一つの考えですが、ブッダの死後三百〜四百年ほどたったころ広がった「大乗仏教」という宗教改革運動のなか(の一部)で生まれた概念であって、ブッダ自身の教え(原始仏教)にもその他の大乗仏教思想にもありません。ブッダは、「極楽に行くべきである」などとは教えていません。むしろ、次のように教えています。我々人間の一生は、究極的に極楽世界に行くためのものと考えていました。(同書、149頁)
私が仏陀としての苦行と修業を通じて、最高の立場で見いだした真理とは何か?それは、人は罪を犯すことなく正しく生きて、極楽に行くべきである、というものであった。(同書、181頁)
想いを知り尽くして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執着に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世もかの世も望まない。(スッタニパータ、779)金さんは、仏教についての基礎的なことさえ知らないのですから、彼女が大乗仏教と原始仏教の違いなど知るわけもありません。だから、仏教に関する誤解だらけの風説とキリスト教の「天国」との混同から、ブッダが「極楽に行くこと」を説いたなどと、勘違いされたのです。もし彼女が少しは仏教について学ぶ謙虚さえ持っていれば、こんなに簡単に彼女のウソがばれることはなかったことでしょう。しかし、謙虚さの欠如こそが、単に心に浮かんだとりとめのない空想を霊界からのメッセージなどと安易に思い込む、霊能者といわれる人々の癒し難い心の病です。
3.結論
霊能者は、だれも知ることのできない「霊界」についてのみ語っていれば、どんなデタラメを語っても、それがウソであることはだれにもバレません。人間には霊界を知る能力などないからです。しかし、霊能者というものは、どうしても地上の事柄についても、ついつい、喋ってしまうものです。統一教会の霊能者(死者と交わるシャーマン)金英順(キム・ヨンスン)さんもその例外ではありません。しかし、地上の世界についての話なら、わたしたちは、それがウソか真実か調べてみることができるのです。
わたしは、金英順さんの著書二冊から、ソクラテスと釈迦に関する、彼女の言及を調べてみました。ソクラテスや釈迦についてなら、膨大な歴史的資料が残されており、わたしたちは、かれらの思想や方法論に関して、いくらかの知識は持っているからです。そして、案の定、彼女の想像のなかの「ソクラテス」や「ブッダ」は、歴史上のソクラテスやブッダとは、まったく、かけ離れたものであることがわかっただけでなく、霊界から彼女に語りかけているはずの「霊界の李相軒先生」も、実物の李相軒氏ではないことも明らかになりました。
おそらく彼女は、人間には霊界を知る能力などないことをいいことにして、「どうせ、誰にもわからないだろう」と、ついつい調子に乗って、自分が何も知らない事柄について喋りすぎてしまったのでしょう。そのため、彼女の『李相軒先生が霊界から送ったメッセージ』のウソがばれてしまったのです。
(ヴィットゲンシュタイン、『論理哲学論考』)
2001年10月1日、佐倉哲