佐倉哲エッセイ集

和の思想と言論の自由

佐倉 哲


論議を可能にするものである「和」とは他人の意見や価値観に対する寛容のことであるが、個人の意見や価値観への寛容とは、現代的に言い換えれば、言論あるいは思想の自由のことに他ならない。

1996年5月30日


論議を可能とさせる場

「和」の意味には狭義の意味と広義の意味を考えることができる。すでに他の論文(「和の思想と個人主義」)で繰り返し説明したように、和の思想の核心は十七条憲法の第一条の最後の部分にある。そこでは「和を以て尊しとなす」のは何故であるかを説明して

上和らぎ、下睦びて、事を論うに諧うときは、事理おのずから通ず。何事か成らん。(中央公論社『聖徳太子』中村元訳)
としている。つまり和の思想とは、和があれば論議が可能となり、論議から理が生じ、理に従って運営をやれば国事はうまくゆく、という政治思想である。和の思想はその全体を眺めてみれば、この「和・論・理」の三段階構造をもっている(和の弁証法)。この構造の中における第一段階の「和」、つまり論議を可能とさせる状態、を狭義の和と考えることができる。それに対して、この三段階構造の全体像を広義の和ということができるであろう。本論文で考察の対象にするのは狭義の和である。


心の自由性と価値観の多様性

十七条憲法は論議を可能とさせる場のことを「和」と呼んだ(狭義の和)。そして、国家政治の運営において先ず大切なのが、この「和」つまり論議を可能とさせる場である、としたのである。このことが分かると、十七条憲法のもう一つの性格がはっきり分かってくる。それは、自己の考え方や価値観を絶対化してそれを他人に押しつけることができると考える独断主義に対する批判精神である。反対意見を禁じる独断主義こそが論議を不可能とするものだからである。そこで第十条では、他人の意見や価値観が自分と違っても怒るな、と思想や価値観の相違に対して寛容を説くのである。なぜなら、人間の心というものはもともとそれぞれ勝手な方向に向いて行動するものであり、自分が正しいと思うものを他人は間違いであると考えたり、他人が正しいと思うことを自分は間違っていると思うこともあるからである。

心の怒りを絶ち、思いの怒りを捨てて、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおの執るところあり。かれ是とすれば、われは非とし。われ是とすれば、かれは非とす。
和の思想は、人間の心の自由性やそこから生まれる価値観の多様性の事実を当然のものとして出発した思想であるがゆえに、独断主義(他人が自分とは違う意見や価値観を持っていることを怒る姿勢)がその事実を謙虚に認めようとしないことを批判するのである。 それだけでなく、人間の知識や判断力は不完全で、人は皆「賢愚あわせ持つ凡夫」にすぎないのだから、独断主義は自分の考え方を他人に強制する論理的基盤を持たないと批判する。そういうわけで、十七条憲法の最終的結論は、その第十七条に明らかなように、独断主義を棄てて衆議を行うこととなるのである。

このように、論議を可能にするものである「和」とは他人の意見や価値観に対する寛容のことであるが、個人の意見や価値観への寛容とは、現代的に言い換えれば、言論あるいは思想の自由のことに他ならないであろう。和とは言論思想の自由のことなのである。和と言論の自由は深くかかわっている。人は、言論思想の自由を束縛されれば、結局、暴力にたよらざるをえなくなるからである。本当に共同体にとって危険なのは「危険思想」の名の下で、ある特定の言論思想の活動を規制するするような事態である。それ故、暴力革命を信条とするような政治思想であっても、それが具体的な違法の暴力を実践しない限り、その言論思想の活動は必ず許されねばならないのである。和の思想に従えば、いかなる思想であろうとも、すべては論議の場への参加権を持っているのである。したがって、思想に文句があれば思想で対決すべきであり、言論に文句があれば言論で対決すべきである。思想や言論に対しては決して力でもって対決してはならないのである。そういう決意こそが和の実践であるといえるであろう。論議を可能とする場が「和」の意味だからである。