佐倉哲エッセイ集

和の思想と空の思想

--- なぜ仏教が日本で受け入れられたか ---

佐倉 哲




仏教が十七条憲法に取り入れられた理由

 十七条憲法の第一原理は和の思想であるけれど、和の思想は仏教ではない。にもかかわらず、仏教が十七条憲法に取り入れられたのには理由がある。その理由は仏教というものが和の思想の実現に役立つものと判断されたからである。独断主義を禁ずる和の思想は、自分が必ずしも聖者であるのでもなく、また人が必ずしも愚者であるのでもない、という人間皆凡夫の立場である。悟りに至っている者はまれである。また、何から何まで完全に邪悪な者も、同じようにまれである。ほとんどの者は聖愚合わせ持つ凡夫にすぎない、という。これは、はなはだ覚めた人間凝視である。欲や怒りや怨みに取りつかれているとき、私たちはなかなか、このように考えることはきない。さまざまな「正義」の装いをつけて、自分の貪欲や怒りや怨みを正当化するが常である。ここに聖徳太子が仏教を和の思想の確立に役立つものとして十七条憲法に取入れた理由があるのであろう。仏教は人の心を柔和にする、十七条憲法の草案者たちはそう信じたに違いない。第二条、第五条、第十条、そして第十四条はそのことを物語っている。


仏教の空の思想

 しかし、仏教思想との関係においては、和の思想にはもう一つの興味深い点がある。いわゆる「空の思想」として知られている大乗仏教の哲学である。それは西暦紀元前後流した般若経文学のなかで顕著になり、二世紀の哲学僧ナーガールジュナ(龍樹)によって哲学に昇華され、それ以後の仏教の発展に大きな影響を与えた思想の一つである。ナーガールジュナの貢献は「ものはすべて空である」といういささかショッキングな般若経の主張を、仏教思想のなかでも最も伝統的な概念のひとつであった「縁起」(プラティーチャサムットパダ:依って起ること)という言葉で説明をしたことである。


原始仏教の思想

 仏教はそもそも、インドの伝統的バラモン思想によって広く信じられていた、永遠に存在する個我(アートマン)の概念に対するブッダの激しい批判から始まった。ブッダはまことにあっさりと、そのよう個我など無い、と主張したのであった。それが有名な無我(アン・アートマン)の思想である。バラモン思想においは「永遠に存在する個我」は宗教的救いにとってなくてはならない概念であった。例えば、バラモン思想の伝統を継ぐヒンズー教の聖典のひとつである『バガヴァッド・ギータ』のなかの物語の一つは、肉親が相分かれて戦わなければならなくなって深く悩む一人の王に対して、クリシュナ神は、まことの自己とは刃で殺しても死なない個我である、と説いて王の悩みを解決するのであった。ところが、ブッダにとって、すべては変滅するもの(無常)であり、自己も例外ではなかった。だから、そういう自己に執着しないことをこそ、悲苦からの解放(解脱)と考えたのであった。ブッダにとって、「永遠に存在する個我」などというものは、自己に対する執着が生んだ虚妄にすぎないのであった。


ナーガールジュナの空の思想

 ナーガールジュナの空の概念は、このブッダの無我の概念を人間だけではなく、すべての存在に適用して、ブッダの思想をより普遍化したものである。だから、空の概念は、よく俗説に言われるように、すべての存在は夢や幻のごとく人間の心のなかにしか存在しない、というような説ではない。そうではなく、変滅する現象の背後に、なおも、ある不変な何ものかを想定しようとする人間の執着、それを否定する思想なのである。ナーガールジュナは、さらにそれを単に無常として述べたのみならず、縁起(依存関係)の概念で説明したのである。

 ものの存在や性質はそれ自体にあるのではなく、むしろ、他との関係のなかにのみある、ということこそがナーガールジュナの主張の中心であった。彼はその主張によって、ものはそれ自体に内在する自性(スヴァバーヴァ)によって存在し、その本質が規定されていると主張していた、当時もっとも強力な仏教学派のひとつサヴァスティバーダ派(説一切有部)の自性説を批判していたのである。空とは、すなわち、ナーガールジュナによれば、いかなるものにも自性(スヴァバーヴァ)などというものは無い、という意味なのである。ものの存在の意味を、他との関係から切り離して、その内側に潜んでいる「なにかそれ自体に特有の不変のもの」に求めるのは空しい努力である、と彼は主張したのである。

 もののアイデンティティーをそれ自体内に求めることができないとすれば、どこに求めるべきか。この問の答えにナーガールジュナが用意したものこそが縁起(プラティーチャサムットパーダ、依って起こること)の思想であった。ナーガールジュナより数百年前に成立した初期の仏典においては、縁起の意味は、「これがあることに依ってあれがあり、これが無いことに依って、あれがない。あれがあることに依ってこれがあり、あれが無いことに依ってこれが無い。」というような短い句に託されて、何度も何度も繰り返し語られている。縁起とは、ものの生起や変滅がさまざまな条件に依存していることを述べた言葉だったのである。悲苦はそれを成立させている原因や条件に依存している、だからこそ、その原因や条件を洞察し、取り除くことができれば、悲苦からの解放(解脱)は可能なのだと教えたのがブッダの教える縁起の思想であった。ナーガールジュナはこの縁起という言葉に注目して、それを自性と対立させたのである。

 彼は「それこれに依存して生じたものは、自性として生起していない」とか「ものが自性として成立しているなら、ものは依存関係によっての存在とならない」とか「原因と条件から生起しもののなかに(不変の)実在を妄想すること、それが迷いである」などという言葉で、他から独立した、永遠自存の個など幻想であり、そのような考え方は、あらゆるものが他との関係のなかで変滅しているという無常と依存関係(縁起)の事実に矛盾することを説いたのである。永遠不変の実在という概念は、ものが原因と条件から生起変滅することを否定するものだからである。


空の思想と和の思想

 このようにして、ナーガールジュナは仏教の空の思想を確立していったのである。さて、もし仏教の空の思想が、このように、個というものは、人であっても物であっても、そのアイデンティティーも存在も、他から切り離されて独立には意味をなさないという思想であり、個の存在もアイデンティティーもさまざまな関係のなかで初めて意味をもつものである、という思想であるすれば、それは和の思想にとって、はなはだ都合のよい哲学であることはあきらかであろう。なぜなら、和の思想の中心思想は、個の独善主義を批判し、他との関係の確立のなかにこそ個の主張の存在の場が確保されとするものだからである。 聖徳太子の時代に、空の思想はまだ日本では明らかにされていなかったれど、たとえば、同じ外来思想であるキリスト教が日本に根をおろさず、仏教だけが深い影響を与えることができた理由のひとつは、仏教の底をながれるこの非独善的傾向にあるに違いない。

 仏教思想はインドにおいては異端思想であった。日本の和の思想も近代西欧文明のなかでは異端思想である。自己のなかに独立自存する不変の「真の自己」があり、その声に従うのは天賦の権利であり、それが幸福である、という思想は魅惑的な思想である。今日、日本に必要なものは「個の確立」である、という主張も今日の日本の評論家に多くみられる。はたして本当にそうだろうか。「自己本位」と「則天去私」という二つの立場の間を生涯さまよった夏目漱石は「自分以外のものを信ずるほど、はかないことはない。しかし、その自分がいちばん頼りにならない、と分かったとき、森田君、人はどうすればよいか?」、と弟子のひとりに聞いているが、こういう問いを問うことができる自己を凝視続けることこそが、漱石を含め多くの日本人のこころに納得できるものなのではないだろうか。真の自己を規定する永遠不変の絶対者が、どこか自己の内か外にあるとするような独善的絶対主義につながる考え方は、絶対神を信じたことのない日本人の人間観からあまりにもかけ離れた思想である。無常の思想であり、縁起の思想であり、無我の思想である仏教が日本に深く根を下ろし、絶対神の思想であり、永遠の魂の思想であり、独善的排他主義の思想であるキリスト教が日本に根を下ろすことが出来なかったのは、日本人の根本的人間観が和の思想のそれであったからである。人間は皆凡夫であり、それゆえ誰も自己の正義や価値観を他人に押し付ける権利をもたない、また他人の意見が自分と違うからといってそれを排斥してはならない、むしろ、皆和して衆議によって得られる理によって共同体を運営せよ、というあの十七条憲法の和の思想が日本人の根本的人間観・社会観であったからである。