佐倉哲エッセイ集

「寅さん」と「STAR TREK」

佐倉 哲


渥美清さんの突然の死に、わたしは深い悲しみに襲われています。本サイトはご承知のとおり、「和の思想」が中心テーマとなっていますが、実は「和の思想」が目標とする理想的社会とは、渥美清さんが長い間演じてこられた「寅さんの世界」である、とわたしは以前から密かに考えていたからです。本論文は、一年以上も前に書き始めたものですが、未だに書き始めだけの未完成品です。時間をかけてじっくりと分析をするつもりだったからです。しかし、今、渥美清さんの突然の死を迎えて、ご焼香に代えて、未完成の拙論ですが、本論文を渥美清さんに捧げたいと思います。

1996年8月8日



アメリカにおいて大衆に最も人気のある映画シリーズは『STAR TREK』であろう。この映画は、宇宙を舞台に、正義が悪を征服しながら、人類未踏の世界へと旅をする宇宙船「エンタープライズ号」の活躍するサイエンス・フィクションである。日本において大衆に最も人気のある映画シリーズは、いわゆる「寅さん」で知られている、『男はつらいよ』である。この二つの作品は、どちらもそれぞれの国において、もっとも長い年月を通して、非常に幅広い層に愛されている映画シリーズである。いったい何故、アメリカ人は『STAR TREK』を愛し、日本人は「寅さん」を愛するのだろうか。

比べて見ると、どちらの映画のヒーローも旅をするところがその共通点であるが、それ以外、ほとんど共通点が見い出せない。たとえば、その旅であるが、キャプテン・カーク率いるエンタープライズ号は、ある一つの明確な使命を持っており、その目的を達成するために、外へ、未来へと一直線的な旅を続ける。ところが、寅さんの旅は、目的もはっきりしないで、フラっと出て行くのである。そして、必ず彼を待っている寅屋の人々のところへ、帰ってくる永劫回帰的な旅なのである。そして、旅の行く先では、エンタープライズ号は必ず、醜く危険な悪に出会うのであるが、寅さんは必ず、優しく美しい女性に出会うのである。それは、エンタープライズ号は知恵と勇気を持って悪者を滅ぼさなければならず、寅さんは人を愛さなければならないからである。しかも、エンタープライズ号は必ず悪に勝利し、寅さんの恋は必ず失敗するのである。

もっとも興味深い相違は善悪に関するものであろう。『STAR TREK』の描く世界は、正義と悪がはっきりと区別され、キャプテン・カーク(白人男性)とそのクルーが、いつでもどこでも、正義の側で、その正義が必ず勝つ。悪は必ず攻撃的で、エンタープライズ号は仕方なく戦わざるを得ないような仕掛けになっている。ところが、「寅さん」の描く世界は、登場人物全員が、いわば「欠点のある善人」である。そこでは、世界に一本の線を引いて、善人と悪人に組分けするようなことができない。幸福にみえる人が大変な問題を抱えていたり、悪い人のようにみえてもどこかよいところが必ず見えてくる世界である。たまには、善人と悪人がはっきり分かれていて、善が悪を討つシーンがあるが、それはいずれも、寅さんの夢の中でのことである。夢のなかで、鞍馬天狗になったり、悪大官をやっつけたりするのである。すなわち、 『STAR TREK』の世界では、最も原則的な「正義が悪を倒す」事態が、「寅さん」の世界では、フィクションのなかのフィクションなのである。

日本映画には造詣の深い、あるアメリカ人評論家は「寅さん」について、「悪の存在しない善人だけの非現実的理想世界」と酷評する。悪の存在とそれとの対決をリアリティの必要要素とするアメリカ人の世界と、そのようなものは夢の夢とする「寅さん」の世界との比較は、このうえなく興味深い。なるほど、悪は存在するであろう。しかし、正義は必ず悪に勝つ、とか、自分の方が正義の側だ、とか、悪の側は滅ぼされるべきである、という世界こそ非現実的フィクションなのではないのだろうか。

「寅さん」の世界は、言葉でうまく表せないけれど、日本人にとってすごい魅力を持っている。しかし、黒沢や小津や溝口などの、数多くの日本映画に造詣の深いアメリカ人なのに、なぜか「寅さん」の世界がほとんど理解されない事実は、日本人とアメリカ人の間にある、何か深い心の断絶を感じさせるものである。この断絶感は『STAR TREK』と『男はつらいよ』という二つの映画の間に横たわっている、ある一つの根本的違いと関係がありそうだ。その違いとは、この二つの映画が描き出す、人間観の相違であり、人間関係の相違である。特に、人間の持つ悪や欠点に対する根本的姿勢の相違である。

……(つづく)


渥美清さん、長い間本当にご苦労様でした。すばらしい映画をありがとうございました。(合掌)