アフガニスタンのタリバン政権は米国の空爆からアフガン市民の生命を守ろうとはしなかった。むしろ、米国の空爆によって、アフガン市民の犠牲が出ることを期待していたようだ。市民犠牲者の悲惨さを宣伝することによって、世界の、とくにイスラム教国家の反米感情が高まり、反戦・反米運動が広まることを期待していたのだろう。しかし、米国のハイテク兵器技術のおかげで、期待していたほどの「成果」があがらず、タリバンは、市民犠牲者の数を誇張することに終始した。

世界各国の反戦・反米運動家は、空爆反対を叫んだが、口先ばかりで、アフガン市民の生命を守るためのいかなる具体的な救命活動もおこなわなかった。かれらは、たった一人のアフガン人の生命も助けなかった。むしろ、もっとアフガン市民の犠牲が出ることを内心期待していたのだ。(そうすれば、平和運動にはずみがつく!)かれらもまた、タリバンと同じように、市民犠牲者が増えれば、世界の反米感情が高まり、ベトナム戦争のように「泥沼化」して、世界中に反戦・反米運動が広まると期待していたのだろう。結局、かれらは、安全な自国の平和な通りで、反戦の太鼓を叩いて、平和のために何か責任でも果たしているかのような錯覚のささやかな自己満足に浸っていただけだ。

現代の平和運動家は、「生命尊重」の看板を掲げるが、本当は、生命を救うつもりなど全然ないのだ。そもそも、かれらは、始めから防衛手段(戦争行為)を放棄しているのだから、攻撃にさらされている生命は見殺しにするほかないだろう。かれらの平和主義は、今回の米国やアルカイダ組織のように、武力攻撃を決意してしまった相手に対しては、全くなす術を持たない。もちろん、かれらも一人前に、「空爆も反対ですが、わたしたちはテロにも絶対反対です」などと、一応は言って見せる。けれども、かれらが、現実のテロリストの攻撃や空爆から、わたしたちの生命を守るために、本気に何かをするというわけでは全然ないのだ。「わたしたちは最後の最後まで説得を試みます。それでもだめならしかたがありません。」

冗談じゃない。生命尊重の行動は、説得がかなわぬときにこそ必要なのに、その重要なときに平和運動家は何の役にも立たないのだ。かれらの平和運動のタテマエは「生命尊重」だが、やっていることは「生命の見殺し」である。