94年3月4日付け日系新聞「OCS News」 において、ジョイス・エディンバーグ女史はその連載「ディスカバー・アメリカ」において開拓時代のアメリカを日本人読者に紹介された。彼女が専門の歴史学者ではないことは読めばすぐわかるが、彼女の連載は典型的アメリカ人が信じさせられているアメリカ史とはどんなものであるかを教えてくれるまことによい例である。多くのアメリカ人は、このジョイス・エディンバーグ女史のように、今だにアメリカ版「皇国史観」を信じている。以下は94年4月15日付けの「OCSNews」に掲載されたわたしの批判である。
空き地の感覚
連載「ディスカバー・アメリカ」のエディンバーグ女史は、アメリカが西部へと拡大した歴史に ついて、「合衆国はずっと幸運だった。膨張する必要があればそこには広大な空き地があった」 と述べられた。空き地?それではアメリカン・インデアンと呼ばれた先住民はどうなるのか、 と、私は考えながら読み進んでいると、彼女が先住民について言及される唯一の箇所を読んで 「なるほど」と納得した。こう書いておられるからである。「開拓者たちは自然のままの土地を 耕さなければならなかっただけでなく、非友好的な先住民や無政府状態とも闘わなければならな かった」と。要するに、「非友好的な先住民」たちは、アメリカ人にとって領土拡大の単なる障 害物として取り扱われているのである。このような先住民理解が、彼らから獲得していった領土 を「空き地」として語る感覚を生んだのであろう。
テキサスはいかにして米国領土となったか
エディンバーグ女史は、アメリカ人による西部獲得の例として、テキサス州を挙げてこう説明さ れる。「テキサスはメキシコからの独立を求めて戦い、一時的にローンスター共和国と呼ばれる 独立国家となったが、後に合衆国に併合されて州とな」った、と。合衆国の歴史を研究したこと のない者がこの説明を読むと、なんだか「自然に」テキサスが合衆国の一部になったかのような 錯覚を起こすであろう。なぜなら、まず、「併合」といった差し障りのない言葉が使われている し、そもそもテキサスが一体いかにして独立国になったのか、という大切な歴史の部分につい て、彼女は完全な沈黙を保っておられるからである。
事実はどうであったか。テキサスはいかにして合衆国の一部となったのか。まず1819年のスペ インとの条約で、アメリカはテキサスは合州国の一部ではなくメキシコの一部であることを公認 している。しかし、1821年のアメリカ人ステファン・オースティンの一行を始めとして、多く のアメリカ人が黒人奴隷を連れて大量にテキサス地域に移民してきた。メキシコ政府がアメリカ 人移民によるテキサス地域の土地使用を許可したうえに、綿花の栽培の産業が花開いたからであ る。実に1830年までにメキシコに移民してきたアメリカ人の人口は二万人程であったと推定さ れている。そこで、クインシー・アダムス米国大統領やジャクソン大統領はテキサス地域を買収 するためにメキシコと交渉した。もちろんメキシコは見向きもしなかった。
ところで、メキシコではアメリカより一足先に奴隷制度が禁止されたのであるが、アメリカ移民 たちは皆これを無視した。このようなアメリカ人移民がテキサスに異常に増大したことが原因と なって、メキシコ政府はアメリカからの移民をこれ以上認めないことを決める法案を採択した。 そこで、あちこちで、メキシコ政府の役人とアメリカ人移民との間にいざこざが起こり始め、多 量の武器と金が、アメリカ本土からテキサスへ送られてきた。有名な西部劇『アラモの砦』は 「正義」のために命を捧げて戦うアメリカ人義勇軍を賛える映画であるが、実際にはテキサスの アメリカ人移民の奴隷制綿花栽培の産業を守るための経済的争いの一つだったのである。
アラモやゴリアドでは孤立したアメリカ人義勇軍が全滅するわけであるが、1830年三月、アメ リカ人移民はテキサス独立を宣言し、その年四月に、「リメンバー、アラモ! リメンバー、ゴ リアド!」を合言葉に、元国会議員でもありまたテネシーの知事でもあり、数々のインデアンと の戦いにも有名を馳せた、サム・ヒューストンの率いるアメリカ軍はメキシコ軍を追放した。し かし、十月にはヒューストンは、そのまま「テキサス共和国」の大統領におさまり、そのわずか 一ヵ月後には、「独立」のために戦ったはずのテキサスのアメリカ人はすでに合衆国への併合の 努力を始めるという、それはとんでもない「独立国」だったのである。
カルフォルニアはいかにして米国領土となったか
エディンバーグ女史は、カルフォルニアについても、そこには「メキシコ人やスペイン人が移り 住み、その権利を主張していた」と、まるでそこには正式な政府が無かったかのごとく、空き地 論を展開される。しかし、テキサスと同じく、カルフォルニアもメキシコの一部であったこと は、当時のアメリカ政府も認めていたのである。だからこそ、ポルク米大統領は1845年11月、 ジョン・スライデルを特別使節としてメキシコに送り、カルフォルニア買収の交渉にあたらせた のである。しかも、この交渉はテイラー将軍率いる米軍を国境線に待機させての威嚇交渉であっ た。
このような高圧的態度のアメリカに対するメキシコ人の反発は大きく、マリアノ・パリデスがメ キシコの新大統領になるやいなやメキシコ政府はただちにアメリカの要求を拒否し、テキサスが メキシコの正式な領土であることを新たに主張したのである。翌年3月、手ぶらでワシントンに 帰ることを余儀なくされたスライデルは、メキシコとの交渉には「こらしめ」が必要であること を報告するのであるが、その間、ポルク大統領はテイラーの軍をメキシコ領リオ・グランデまで 前進させメキシコ軍を挑発した。そこでメキシコ軍と小さないざこざがあったことをよい理由 に、同大統領は米国会において、5万の追加軍と物質的援助をすることを可決させるのである。 このようにしてメキシコ戦争が本格化したのである。1846年4月のことである。
長年にわたるインディアンとの戦いで鍛え上げられたアメリカ軍の前に、メキシコはつぎつぎと 領土を奪われていった。6月にサクラメントのソノマが落ちた。7月には米海軍がモンテレイと サンフランシスコを手に入れた。ステファン・ワット将軍の率いる軍はロッキー山脈を超えて、 まずサンタフェを陥落させ、他の米軍とともにサンディエゴとロサンジェルスを陥落させた。こ のようにして、1847年の2月までに「広大な空き地」-- テキサス、カルフォルニア、ニューメ キシコ -- のすべてはアメリカ人のものとなったのである。
領土拡大は西部で終わらなかった
エディンバーグ女史は、また、アメリカ人による西部獲得が合衆国拡大の最後であり、「西部へ の夢物語は終わった。もはや自由の地は存在しない」、と述べられた。しかし19世紀のアメリ カ人の領土拡大欲はあくことを知らずに、さらに前進したのである。もちろん、そのすべてが成 功したわけではない。例えば、1855年アメリカ人ウイリアム・ウオーカーと彼の軍団はニカラ グア政府を倒し一時的にではあるが、彼は自分で勝手にニカラグアの大統領となった。また、ア メリカ人ジョージ・ビックリーとその軍団は、メキシコ全土を獲得するために努力し、メキシコ を25の州に分割しようとした。
また、アメリカ人の領土拡大欲は大陸を越え、海をわたって求められることにもなる。大西洋方 面では、その矛先は当時スペインの領土であったカリブ海の諸島に向けられた。1854年、ピ アース米大統領はキューバ買収を試みた。ところが、その使命を担った使節たちの『オステン ド・マニフェスト』と呼ばれる提案書の内容が買収交渉前に外部に漏れてしまったのである。そ れは、もしスペインがアメリカによるキューバ買収を断わった場合、アメリカがそれを力ずくで 獲得することは、「自然の理にかなっている」ことを主張したものだったから、アメリカのやり 方はヨーロッパ各国のひんしゅくを買うこととなったのである。このため、アメリカはカリブ海 諸島の買収交渉は一時断念しなければならなかったのである。
しかし、やがて、キューバに内乱が起きると、アメリカの新聞はスペイン人の非人道的行動を大 げさに書きたて、すぐにキューバへの軍事干渉が正当化され、スペインとの戦争がはじまる。わ ずか4か月でスペインはあっけなく破れるのであるが、「キューバ人解放」のために戦ったはず のアメリカは、この戦争で敗戦国スペインから、フィリピンとグアム島を戦利品として獲得する のである。フィリピン人はアメリカ支配にも激しく抵抗したが、3年の闘争の後、アメリカの圧 倒的軍事力の前に破れ、アメリカの植民地となるのである。 そのほか、パナマ、ハワイ、サモア諸島、ウエーキ・ミッドウエイ、ヴエノスアイレス、ヴェネ ズエラなど、北米大陸をはるかに越えて、同じ様な軍事的方法で、アメリカ人は植民地あるいは 海軍基地を獲得していったのである。
侵略思想
この19世紀のアメリカ拡大主義の背後には、まず民衆のレべルにおいては、「マニフェスト・ デスティニ」(明白な運命)という言葉で表現される大衆信仰があった。北米大陸はすべて神から 与えられたものとして、アメリカ人がこれを得るために、そこにあり、なにものもそれを妨害す ることはできない、といった考え方である。また、外交レべルでは、当時の米国の軍事および貿 易に関する外交政策に大きな影響を与えていた軍事歴史家アルフレッド・マハンの理論があっ た。それは、国家繁栄の基礎は貿易であり、貿易の増大には、制海権の獲得が必要である、とい うものであった。ペリー総督率いる軍艦隊の日本への派遣もこのような状況のなかで行われたの である。アメリカの拡大運動がカルフォルニアで「終わった」というエディンバーグ女史の主張 は歴史ではなく神話なのである。
アメリカ人の行くところにはいつも先住民がいた
宣教師、砂糖きび栽培資本家、アメリカ海軍などがハワイにやって来る前には、ハワイには先住 民が30万人いた。しかし、わずか100年後、アメリカ人がハワイの土地の75パーセント以上を 所有するようになった頃には、先住民の人口は3万人以下に激減していた。ハワイ先住民たち も、大陸においてアメリカン・インディアンと呼ばれる数百万の先住民族が、追われ、殺され、 生活手段を奪われ、伝統的生活様式を否定されて、1890年頃には20万人以下になってしまった のと同じような運命をたどったのである。「合衆国はずっと幸運だった。膨張する必要があれば そこには広大な空き地があった」と語られるエディンバーグ女史の持つ感覚は、多くの白人アメ リカ人の間でもたれている、ごく普通の感覚なのかもしれない。しかしそれは歴史的事実ではな い。それはむしろ、親が子に、先生が生徒に、また、ハリウッドやテレビドラマが大衆に語り伝 えてきた「アメリカ神話」とでもいうべきものなのである。アメリカ人の行くところには、いつ も先住民がいたのである。「空き地」はアメリカ人の前にあったのではなく、彼らが通った後に 出来たのである。